2014年5月25日主日礼拝報告

まんげつのよるに

まんげつのよるに

教会の暦では復活節第6主日でした。

第1部、子供の礼拝の中では、新約聖書・マルコによる福音書1章12~15節を読み、メンバーのIさんが「まんげつのよるに」という絵本を朗読して、お話をしてくださいました。敵も味方も無くなる瞬間があると思います。生きとし生ける物の根源に遡る時(誕生)、あるいは行き着くとき(死)、そういう瞬間でしょうか。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記19章20~29節を読んで、牧師から「私を贖う者が生きている」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

人は身体を持って生まれてきます。人は身体として生きるからこそ、人や世界と触れ合うことができます。感覚のすべても身体がもたらすものです。身体がなかったら、気持ちも生まれないし、心も育まれません。ところが、この身体くらい自分の思い通りにならないものもありません。身体は自分がそう願わなくても、心臓を動かし、息をし、成長し、老化し、勝手に病気にもなります。また、身体が持つ心や気持ちもままならないものです。どうしようもなく悲しみは募り、涙はあふれ、我を忘れて怒りはわき、いつの間にか人を好きになります。嫌いなものを好きになろうとしてもできません。気持ちを抑え込もうとしても、身体に返って来たりします。無理に元気は出せません。人は身体がないと生きて行けないのですが、その身体が自身を苦しめたり、人と人との関係を損ねて、共に生きることを邪魔したりもします。この身体というのはいったい何なのでしょう。

ヨブ記に聴いてみましょう。今、ヨブの身体は、皮膚病に侵されて、極限まで蝕まれています。どうしてこんなことになってしまったのでしょう。ヨブの友人たちは、ヨブの悲惨な身体に、ヨブの罪を見ます。健康な身体にこそ、人間の価値はあると見ているのです。でもヨブはそうした考えを、ここでもはねのけて、あることを宣言します。「私は知っている、私を贖う者は生きたもう、彼は後の日に塵の上に立つのだと。わが皮膚が崩れ去るそのような後に、わが肉なしに、私は神を見るであろう。私は彼をわが味方として見るであろう、わが眼は他人ではない者として彼を認めるであろう…」(岩波書店『ヨブ記』19:25~27・並木浩一訳)。この翻訳によれば、死の世界で、神自身がヨブの身体となったということをヨブは見ているということになると僕は思います。ヨブの身体はもうほとんど残っていない、そういうヨブの死の世界=「塵の上」で、神がヨブ自身の身体となったと、ヨブはここで言っているということになるのです。つまり、ヨブの無残な身体、友人たちが罪の表われとしてしか見ないヨブの悲惨な身体が、塵の世界=死の世界では、神の身体として生きているのだとヨブは宣言しているということなのです。それはきっと、立派な身体じゃないと僕は思います。それはやはり骨と皮だけで、血だらけの惨たらしい身体なのではないでしょうか。でも、それが神の身体で、神はそうやってヨブを「贖う」に違いないと、ヨブは信じるのです。

使徒パウロは、教会を「キリストの体」に例えました(コリントの信徒への手紙一12:26~27)。パウロは教会が身体と同じように様々な器官から成っているということを言っていますが、それはやはり、人間の身体と同じようにキリストの身体も、決してままならないもので、でもそれがキリストのひとつの身体なのだということなのではないでしょうか。

ヨブが、死の世界で、自分の悲惨な身体が神の身体とされたのを観たように、パウロは、痛み苦しみ十字架につけられたキリストの身体、「なぜわたしを見捨てるのですか」(マルコ15:34)と叫ぶキリストの身体、弟子のトマスに触れさせた(ヨハネ20:27)傷だらけのキリストの身体に教会を観たのでしょうか。だから、どうにもならない、ままならない、欠けだらけの自分の身体、この「わたし」の身体こそ、「わたし」と「あなた」をつなぐことのできる大切で善いものとして、「わたし」たちは教会として共に生きて行きたいと僕は思います。どんなに醜く見える身体であるとしても、思い通りに動かない不自由な身体であっても、願いもしないことをする、ままならない身体であっても、朽ちて行って塵になって行くしかない儚い身体であっても、その身体だけが人と人をつないで、この世界を共に生きて行くための、この「わたし」の身体ですし、それと同時に、「わたし」たちと共に生きている神の身体だと聖書は告げているのでしょう。

(以上、お話の要約)

礼拝後には、『ナザレのイエス』を鑑賞しました。6回目です。今回はヤイロの娘の件から、マグダラのマリアの件までを鑑賞しました。

次週は復活節第7主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録18章18~22節、牧師からのお話のタイトルは「意を決して」です。

報告:山田有信(牧師)

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