教会の暦では聖霊降臨節第3主日、「主の食卓礼拝」でした。今年の聖霊降臨節は10月25日(土)まで続きます。
第1部の合同礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記20章12~22節を読んで、牧師から「『わたし』を損なうもの」というタイトルでお話しました。
(以下、牧師のお話の要約)
ヨブの友人ツォファルがここで言っていることを要約すれば、次のようなことになるでしょう。「誰かが悪いことをして、お金を儲けたり、たくさんの物を手に入れたりしても、そのことはいつかその人に帰ってきて、神からの罰がくだって、お金や物が毒となり、その人を滅ぼしてしまうだろう」。
それに対してヨブは言います。「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き/その末を目の前に見ることができる。その家は平和で、何の恐れもなく/神の鞭が彼らに下ることはない」(新共同訳聖書、21章7~9節)。神さまの罰なんか当たらないとヨブは言うんです。悪ことをしてお金を儲けても、その人は長生きをしているし、子供や孫と一緒に平和に暮らして行いるじゃないかっていうことです。
ツォファルとヨブ、いったいどちらの言い分が正しいのでしょう。
先々週、僕は福島というところに行って来ました。福島には原子力発電所があって、全部で10基の原子炉があります。けれども東京にはひとつもありません。日本では原子炉のあるところにはたいていPRセンターというものがって、原子力がどんなに素晴らしいもので、絶対に安全だということを宣伝しています(僕は青森県六ケ所村「核燃サイクル施設」のPRセンターと福井県にある高速増殖炉もんじゅのPR センターに行ったことがあります)。福島にも以前はPRセンターがありました。そこで、原子力の素晴らしさ絶対に安全だということが宣伝されていたに違いありません。でも、ご存じのように、3年前の大地震と津波によって、福島の原子力発電所は爆発してしまいました。「絶対安全」ではなかったのです。福島の人たちはずっと騙されてきたことになります。
でも福島の人たちを、それまで騙してきた人たちは警察に捕まったでしょうか。牢屋に入れられたでしょうか。電気を作って儲けたお金を取り上げられたでしょうか。ツォファルが言うように何か罰が当たったでしょうか。
この世界には、悪いことをしてその報いを受ける人もいます。だからツォファルの言うことが全部ウソということではないかも知れません。でも福島のことを考えると、ヨブの言っていることも本当だと僕は思うのです。人を騙して、神さまが嫌うようなことをしても、前と変わらず平和に暮らしている人たちがたくさんいるのです。
でもそれは、福島の人と関東の人だけのことではありません。福島には原子炉が10基ありますが、大阪に近い福井県には原子炉が15基あります。そこで作られている電気の多くは関西に送られています。そして、福井の原子炉の近くにはやっぱりPRセンターがあって、原子炉は安全なんだということを、いつも宣伝しています。福島では原子炉が爆発して、こんなにたいへんなことになっているのに、それでも、本当は原子炉には大きな危険があるんだということは宣伝していないのです。
この世界は、人を騙したり騙されたり、そんなことで、みんなが自分らしく生きられない世界です。でもイエスは、みんなが自分らしく生きることのできる「神の国」が近づいたと告げました。「神の国」を信じます。
(以上、お話の要約)
第2部の「主の食卓礼拝」では、先日牧師が参加した「部落解放全国活動者会議 in 会津」(主催:日本キリスト教団部落解放センター主催)の報告をしました。食事はメンバーのOさんが用意してくださいました。
(以下、報告の要約)
会議では様々な証言を聴きました。今日はその中から、いわゆる「強制避難者」と「自主避難者」と呼ばれる立場の方の証言を紹介します。いろいろなところで、様々な形で起こっている、「分断」を感じ取っていただければ幸いです(以下の要約の括弧内は山田の補足です。すべて聴き取ったもののメモから起こしているので、実際の証言と食い違う点があるかも知れません。また無知による間違いもあるかも知れません。その責任は山田にあります)。
「強制避難者」と呼ばれる女性の証言から
- 2011年3月11日までは、福島第一原発のある大熊町の南隣り、富岡町に在住(富岡町は現在もかなりの部分で避難指示が出ている)。現在は会津若松市に住んでいる。
- 自宅は、現在は「避難指示解除準備区域」(最近そうなった。もうすぐ住めるようになるイメージがわくが、今も放射線量が高く危険だということ)。そのため、「強制避難者」から「自主避難者」の立場に最近変わった。
- 一時帰宅は許されているが、以前は帰宅のためには煩雑な手続きが必要で、線量計を持つなど、厳重な装備が必要だった。未だに宿泊・居住はできない。町にはネズミが蔓延し、家の中は死骸と糞尿、その匂いでひどいことになっている(富岡町はもともと人口1万6000人ほど。皆がバラバラに避難生活を送っている)。
- 震災直後に、行政からの簡単な指示で避難。「もう戻れない」という意識、覚悟はなかった。最初は南の栃木県、そして福井県へと避難。
- 地震や原発は自分にとって日々の問題。問題意識を持っていなくても、線量計を渡されたり、富岡町の除染計画の説明会の案内が来たり、甲状腺検査の案内が届いたり、そのことを毎日毎日突きつけられる。避難生活だけでも十分たいへんなのだが、次から次へと様々なことが起こって来る。
- 震災前は、朝、家族を見送り、夜には家族を迎えるという生活だった。しかし今は家族がバラバラ。連れ合いとは電話とメールでしかやり取りができない。そんな生活がいつ終わるのか、見通しも立たない。
- そんな過酷な避難生活だが、それを維持するための努力がさらに必要である。自分たちが被害者であることははっきりしている。しかし加害者がはっきりしない(国と東京電力であることは確かだが、その顔が見えない)。相手は国と巨大な企業。個人でそれを相手にしなければならない。苦しむ被害者の側が、自分たちの被害を客観的に証明しなければ賠償も受けられない。
- 被害者を責めるような風潮もある。わがままだとか、補償金で贅沢をしているとか思われている。そう言う人とは、いつでも生活を代わって差し上げたい。実しやかな都市伝説もある(「仮設住宅の近くで通帳を拾い、中を見たら、『トウデン』からの振り込みが並んでいて、残高が数千万円だった」というようなもの)。
- 「自主避難者」の何気ない一言に傷ついて来た(例えば「自主避難者は住宅が保障されていないのでたいへんなのだ」という一言に、彼女は「強制避難者はいいよね」という言葉を聴き取ってしまうのだろう。確かに「強制避難者」には住宅が保障されている。しかし住みたい場所を選べるわけではないし、そもそも「強制避難者」は自宅に戻ることもできない)。悪意がないことは分かっていても、理解されないことに落ち込んでしまう。理解してもらうことを諦めてしまうようにもなる。
- 震災を境に、自分たちの生活、自分の考え方も大きく変わった。それまではテレビや新聞の報道を鵜呑みにしていた。しかし本当のことは報道されないのだと知った。義援金がどのように使われているのか、以前は気にしたことはなかった。実際にはだまし取られたり、貪り取られたりしている。義援金として募金することは自分にとって自己満足に過ぎなかったのではないか。報道や政府の言うことを信じるよりも、自分自身の目で確かめる必要があることを知った。
- 自分も家族も、それまでの生活が当たり前のものではなかったことを知って、互いに思いやるようになった。子供は、福島の未来のために働きたいと言っている。
- 震災後、ずっと泣いて過ごして来たわけではない。家族全員が揃うことはたまにしかないが、その時は、それまでには無かったくらい本当に楽しい時間を過ごしている。
- 震災と原発事故を経験するまでの自分は傲慢だった。経験してきたことを活かして「優秀な支援者」として恩返しをしたい。
「自主避難者」と呼ばれる女性の証言から(匿名証言者の証言なのでここには記しません)
実に様々なところに、実に様々な「分断」があります。被害を受けたか、受けなかったか、避難したかしなかったか、強制的に避難させられたのか、自主的に避難したのか、放射能の影響を知っているか知らないか、それをどう感じるのか、法的なことを知っているか知らないか、自治体や国と交渉できるかできないか、そういった様々ことで、人と人との間に、地域の仲間の間に、家族の間に、親子の間に、夫婦の間に、分断が起こっています。そして、震災や原発事故のことが、その人の日常なのか、それとも「他人事」なのかというところでも、大きな分断が起こっていると思います。そのことをわたしたちは忘れないようにしたいと思います。
(以上、報告の要約)
礼拝後、午後2時30分からは、浪花教会の牧師就任式があり、メンバーのTさん、Eさんと一緒に参加しました。浪花教会の皆さま、おめでとうございます。
次週は、教会の暦では聖霊降臨節第4主日です。聖書箇所は新約聖書・マルコによる福音書1章12~13節、牧師からのお話のタイトルは「イエス荒れ野へ」です。
礼拝後は、ほっとコーヒータイム。映画『ナザレのイエス』を20分ほど鑑賞します。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)