2014年6月29日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第4主日でした。

宮沢賢治(Wikipediaより)

宮沢賢治(Wikipediaより)

第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・マルコによる福音書10章13~16節を読んで、メンバーのIさんが、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を朗読してくださいました。

第2部の礼拝では、新約聖書・マルコによる福音書1章12~13節を読んで、牧師から「イエス荒野へ」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

イエスは40日間荒野に居たといいます。洗礼者ヨハネから洗礼を受け、ガリラヤで宣教を始める前のことです。イエスは荒野で何をしていたのでしょう。マルコ福音書に聴いてみましょう。

マタイやルカ福音書にあるイエスの荒野の40日の話には、石をパンに変えるようイエスが悪魔に迫られるエピソードなどが記されていますが、マルコ福音書のそれはとても簡潔です。著者マルコは、イエスが悪魔にそそのかされそうになるような話ではなく、イエスが試みにあっていることだけを記します。イエスを試みるサタンは、決して悪意を持った存在ではなく、単に人を試みにあわせるという役割を負った神の使いです(旧約聖書・ヨブ記など)。では、イエスがあった試みとは何でしょうか。

高岡健さん(精神科医)は、いわゆる「ひきこもり」のことを、「自分と自分との間の対話」だと言っています(『不登校と医療の今を考える』NPO法人登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク発行から)。自分と自分との間で対話をして、自分の過去はこれでよかったんだろうか、続けていれば未来があるのか?、未来がないとしたらどうすればいいのか、自分と他人は違っているか、違っていていいのか、それとも同じようにしなければならないのか、そういうことを考えるのが「ひきこもり」だと言うのです。

マルコの記すイエスの荒野の40日は、この「ひきこもり」だと僕は思います。「ひきこもり」にはネガティブなイメージが付きまといます。僕自身もそういうイメージを拭うのは難しいことです。でも、想定しない出来事に出会ったら、誰だって人は戸惑うし、ためらうし、恐れを感じるんです。その時に、人に決められた道を行くんじゃなくて、人の敷いたレール人乗るんじゃなくて、自分と自分との間で対話をして、自分にあった自分の道を自分自身で決めて行く必要があるんだと思います。そのために「ひきこもり」は必要なことなのではないでしょうか。マルコ福音書では、サタンの試みとは、イエスとイエス自身との対話なのだと思います。

洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは荒野にひきこもりました。人の近づかない荒野へ行って、サタンと獣と天使以外とは会うことなく、自分と自分との間で対話をするのです。イエスの人生が大きく変わろうとしている時です。そういう時に、人はやっぱり独りになって、自分と自分との間で対話をする必要があるんだと思います。イエスは40日間、ひきこもりました。40という数字は、聖書の中では、何かが成し遂げられるために必要な期間を示す数字です。十分な時間をかけてイエスはひきこもったということです。それはまた「霊」によってなされたものだと記されています。イエスのひきこもりは、決して自分勝手な営みではなく、神の営みだということでしょう。

人は誰でもひきこもることがあると思います。生き方がひとつしかないかのような世界に違和感を抱くときが、多くの人にはあるはずです。歳を重ねて様々な能力が衰えて世界に自分を合わせることができなくなるとき、わたしたちは苦痛を感じるし、自分がこのままでいいのかどうか戸惑うと思います。神はそんなわたしたちが、自分自身の力で自分の進む道を見い出すために、自分と自分との間の対話へと導くのではないでしょうか。すべての人に、自分と自分との対話のための十分な時間と場が与えられますように。

(以上、お話の要約)

礼拝後は「ほっとコーヒータイム」。DVD「ナザレのイエス」の鑑賞第7回目でした。二枚組のDVDですが、ようやく一枚目が終わりました。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第5主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録19章1~10節、牧師からのお話のタイトルは「心を広く開けて」です。

礼拝後は、子供讃美歌(改訂版)60番の練習をする予定です。

報告:山田有信(牧師)

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