2014年7月6日主日礼拝報告

ウルトラアイ リアルタイプ

ウルトラアイ リアルタイプ (ウルトラセブンに変身するためにモロボシ・ダンが装着するアイテムのモデル、Amazonから拝借)

教会の暦では聖霊降臨節第5主日でした。

第1部の子供の礼拝の中では、旧約聖書・創世記20章1~5節を読んで、牧師から「おうさまをだますアブラハム」というタイトルでお話をしました。神に選ばれたアブラハムが、嘘をついてゲラルの王アビメレクを騙します。なぜこんなアブラハムが選ばれたのでしょう。まったく分かりません。しかもアブラハムは結果的に多くの財産を手にします。ますます分かりません。

第2部の礼拝では、新約聖書・使徒言行録19章1~10節を読んで、牧師から「心を広く開けて」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

幼い頃、「ウルトラセブン」というテレビ番組に熱中しました。その番組は、ありきたりな「正義」を振りかざすものではなく、「正義」というものを根幹から揺さぶるような内容でした(そのことを意識できるようになったのはずっと後のことですが)。「ウルトラセブン」を製作したのは円谷プロダクションという製作会社でしたが、創業者の円谷英二から続いてきた、一族による会社経営は何年か前に終わりました。円谷英二のこだわりが引き継がれることはもうないかも知れません。どうしてこんなことになってしまったのでしょう。円谷英二の孫にあたる円谷英明が書いた『ウルトラマンが泣いている』(講談社)を読んで、その事情を知りました。まず、そもそも一族の歴代社長の多くには経営能力がありませんでした。製作費がかさんで経営が危うくなると、リストラによってスタッフを失うということを繰り返すうちに、優れた番組を制作する力を円谷プロは失って行きました。番組に登場するヒーローや怪獣、メカなどのおもちゃを売って利益を上げるというビジネスに胡坐をかいて、番組はおもちゃのコマーシャル化して行き、優れた作品を作ることができなくなって行きました。また、経営者や幹部の一部が会社を私物化して経営を圧迫しました。そしてついに、円谷プロダクションは身売りするほかなくなって行くのです。円谷英明は著書にこう書いています。「ウルトラシリーズの最大の問題は、一本筋の通ったコンセプトを守れる人がおらず、時代の流れに翻弄されるがまま、ウルトラマンを過剰に『変身』させてしまったことです」。貫くべきことから外れて、おもちゃを売ってお金を儲けることだけに目が眩んで、そのためだけに番組を作るようになって、良い内容の番組を作れなくなってしまったことを円谷英明は後悔しているのです。何を言いたいのかというと、本筋から外れてはいけないということです。「正義」にこだわり、「正義」を問うような番組を作ることが円谷プロの本筋だったのではないでしょうか。

でも、本筋から逸れることで、本来の目的を見失ってしまうのは教会も同じです。エフェソという町にやってきた使徒パウロは、すでにいたキリスト者・クリスチャンたちが「ヨハネの洗礼」しか知らず、聖霊を受けていないことを知って、もう一度洗礼を受けさせます。パウロの価値観こそが正しくて、それ以外は認めないとでもいうのでしょうか。でも、「ヨハネの洗礼」なのか、イエスの名による洗礼なのかといことは、そんなに重要なことでしょうか。僕は重要だとは思いません。マルコ福音書を見ると、そもそもイエス自身がヨハネの洗礼しか受けていません。そしてイエスが洗礼を受けてすぐに、霊がイエスに降ったと、マルコは記していますが、それは別にそうでなければいけないということではないと思うんです。ヨハネの洗礼なのか、イエスの名によるものか、聖霊を受けているかどうか、そういうことはキリスト教の本筋ではありません。

キリスト教の本筋とは何でしょうか。それはイエス自身とイエスがしていたことの内容です。イエスがしていたのは、他の何よりも人を大切にするということではなかったでしょうか。イエスは、当時なににも優って尊重されていた「律法」という決まり事よりも人間を大事にしました。だからわたしたちも、人を大切にすることを忘れてはなりません。同じエフェソにアポロというクリスチャンがいたことを、使徒言行録は記しています(18章)。アポロもまた「ヨハネの洗礼」しか知らないクリスチャンでしたが、パウロの仲間のプリスキラとアキラはアポロを受け入れて、その活動を支援しました。自分流儀の洗礼と聖霊についての考え方を押し付けるパウロとはえらい違いです。わたしたちが見習うべきはパウロのやり方ではなくて、プリスキラとアキラのやり方の方です。誰の名による洗礼かとか、聖霊をどう考えるかとか、そういったことはあまり重要ではありません。そんなことにこだわって、人を自分の流儀に従わせようとするのは間違いです。大切なのは、流儀じゃなくて、人を大事にすることです。イエスは律法ではなく一人の人を大切にしました。わたしたちも他の何かではなくて、人を大切にすることを学び、そのことを貫き、そのことから右にも左にも、それてはなりません。イエスの弟子たる「わたし」が、他の何かを優先して一人の人を軽んじることがありませんように。

(以上、お話の要約)

次週は、「部落解放祈りの日」です。大阪淡路教会が属している日本キリスト教団は、1975年7月開催の常議員会で部落差別問題特別委員会の設置を決め、教団として部落解放の働きを始めました。教団の部落解放センターは、この原点を記念して、7月第2主日を「部落解放祈りの日」として、全国の教会・伝道所に部落解放のための祈りを呼びかけています。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記20章23~29節、牧師からのお話のタイトルは「人を生かす言葉」です。

報告:山田有信(牧師)

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