教会の暦では聖霊降臨節第6主日、「部落解放祈りの日」として皆で礼拝を献げました。大阪淡路教会では、毎年7月の第二日曜日を「部落解放祈りの日」としています。これは、淡路教会が属している日本キリスト教団の部落解放センターが呼びかけているもので、日本キリスト教団が一九七五年の七月に部落解放への取り組みを始めたことを記念して、全国の教会の人々が部落解放のために祈りを合わせるための日です。
第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・ルカ10章25~27節を読んで、メンバーのOさんが「こころをつくす」というタイトルでお話をしてくださいました。サッカーでは、ピッチで傷んだ選手がいたら、ボールをサイドから出して、試合を止めるのがマナーです。でも試合を見ていると、痛くもないのに痛いふりをして倒れる選手も時々いますね。そういうときにはどうすればいいでしょうか。Oさんからのお話は、そういう問いかけだったと思います。難しいですね。
第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記20章23~29節を読んで、牧師から「人を生かす言葉」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
イエスの時代、イスラエルの律法に従えば、「安息日」に病気の人に触れることは、してはならないことでした。病という「穢れ」(病=穢れとすること自体疑問ですが)を避けるためです。そして誰もがそれを当然のこととしていました。ところがイエスは、ある安息日に、会堂にやってきた「片手の萎えた人」を会堂の真ん中へと導きます。そして言いました。「安息日に律法で赦されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(マルコ福音書3章4節)。黙りこくる人々にイエスは怒り、片手の萎えた人に言います。「手を伸ばしなさい」(同5節)。イエスは「穢れ」とされていた人を、会堂の真ん中に立たせたのです。
「部落差別」の起源は江戸時代の身分制度にあると僕は学校で教わりましたが、研究が進み、今では異なる説があります。千年前の平安時代の京都に、部落差別の起源があるというのです。外国から入って来た差別構造が日本にも取り入れられて、天皇家や公家が「穢れ」を負わないために、「穢れ」を専門に負う人々が定められました。貧しい人々がかり出されて、人や動物の死体を扱わされるようになったのです。「穢れ」が移らないように、彼らに接触することは禁じられました。そしてその代わりに納税を免除されました。これが部落差別の起源です。その後、その差別構造は時の権力者たちに利用されて行きます。やがて城下町が作られるようなると、被差別民は住む場所を特定されるようになって、差別はより強化、固定化されました。明治政府は解放令によって被差別民撤廃を打ち出して、部落差別を江戸幕府の悪しき制度としました。その解放令から一四〇年以上が経ちますが、未だに差別は無くなりません。要するに、部落差別というのは、その当時の権力者によって導入され、権力者に利用され、強化されていったわけです。でも権力者ばかりが悪いとも言えないのかも知れません。実際に、具体的に差別をしたのは、権力者の政策を受け入れた普通の人々です。実際に蔑んで、差別する民衆の手で差別は担われていったのです。
部落差別は以前よりも見えにくくなりましが、今も確実に続いています。根強く残っていて、様々な場面で表に出て来ます。そして、形を変えた部落差別としてより強化されているようにも思います。そのひとつが日本の原子力政策です。文科省管轄の原子力委員会が定めた「原子炉立地審査指針」というものの中に、「原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること」という条件があります。つまり、原子炉が危険なものだということが前提になっているのです。そしてその条件に合う場所として、例えば福島や福井が選ばれることになります。都会から危険なものを遠ざけるために、特定の地域が定められて、そこに危険が押し付けられるわけです。これは、平安時代に高貴な存在を穢れから遠ざけるために部落民が選ばれて、やがて地域が特定されて行ったという部落差別の構造と同じものなんじゃないでしょうか。構造は同じですが、いわゆる部落差別よりももっと巧妙で見えにくいものになっているかも知れません。福島原発のような爆発事故でも起きなければ、その差別構造はなかなか表に出てこないからです。「安全」である限りは、原子炉がある場所の人々も、自分たちが差別されているとは思わないし、都会の人々も自分たちが差別しているとは思わないでしょう。原子炉のある自治体には莫大な交付金が納められますから、それは差別などではないと言う人もいると思います。けれども、被差別部落の人々も税の免除を受けたり、他にも特別な措置が講じられましたが、それによって優遇を受けた反面、周囲から妬まれて、より差別が助長された面もあります。それと同じように、とても範囲の広い部落差別が、より意識されにくい形で、原子力施設を造るために利用されているとも言えるのではないでしょうか。
ヨブは「穢れ」の側に置かれました。律法によれば、皮膚病は特に「穢れ」とされるものでした。他の人が触れようとすることはありませんでした。ヨブの友人のツォファルは、ヨブのその「穢れ」を、ヨブの悪事によるものだとして、悪人の末路は滅びでしかないと強調しています。でもヨブは、ツォファルのそんな言葉を「欺き」だと言います(21章34節)。その通りだと思います。ヨブ記の書かれた時代、社会には多くの罪なき貧しい農民が、ヨブのように苦しんでいたのです。
でもそんなユダヤ社会に、「穢れ」の側に立ち、むしろそれを中心にしようとする者が現われます。それがイエスです。「穢れ」を作り出して、「穢れ」を避けて、遠ざけ、周辺に置いて、蔑むことによって、自分たちの価値を高めようとする試み、つまり差別を、イエスは「穢れ」とされるものを中心に置くことで打ち砕くのです。そんなイエスこそ、人を差別するのではなく、人を生かす唯一つの言葉だと僕は思います。
何かを忌み嫌って周辺に押しやろうとすることが差別を生みます。そんな差別を、イエスに倣って無くそうとするなら、わたしたちが忌み嫌い、穢れとして周辺に押しやっている者を、むしろ中心に置くことによってしか、それは叶わないと思います。部落差別はそう簡単には無くならないかも知れない。むしろ形を変えて、より分かりにくい形でこれからもこの世界を蝕んでいくと思います。でも、どんなに差別が力を振るっても、イエスと共に歩む者がすることは変わりません。人が忌み嫌って遠ざけようとする「穢れ」など作り出さず、むしろそれを中心にしようとする、そんなイエスという言葉を日々紡ぎ出して行きましょう。主よ支えてください。
(以上、お話の要約)
次週は、教会の暦では聖霊降臨節第7主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録19章11~20節、牧師からのお話のタイトルは「インチキ」です。礼拝後には月に一度の会堂清掃、定例役員会が予定されています。
報告:山田有信(牧師)