2014年8月3日主日礼拝報告

日本キリスト教団が「平和聖日」と定めた日でした。

アブラハム、ハガルとイシュマエルを追い出す(The Brick Testament より)

アブラハム、ハガルとイシュマエルを追い出す(The Brick Testament より)

第1部の子供の礼拝の中では、旧約聖書・創世記21章1~5節を読んで、牧師から「アブラハムのこども」というタイトルでお話をしました。アブラハムは、妻のサラとの間にイサクが生まれると、女奴隷ハガルとの間にいたイシュマエルを、ハガルと一緒に追い出します。神は、追い出されたハガルとイシュマエルにも、追い出したアブラハム、サラ、イサクにも、眼差しを向けています。人と人が共に生きる可能性を示しているのではないでしょうか。

第2部の礼拝では新約聖書・マルコによる福音書1章40~45節を読んで、牧師から「とつとつ平和に」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

皮膚病の男とイエスのやり取りが噛み合いません。41節の「深く憐れん」だという言葉は、もともとは「怒った」という別の言葉だったという有力な説があります。もしそうだとすると、イエスは、男と出会ってから別れるまで終始怒っていたということになります。怒っていたのなら、男を癒さなくてもよさそうなのですが、イエスは男の皮膚病を癒します。男の方も男の方で、皮膚病を癒したことを誰にも言わずに、まずとにかく祭司に見せて献げ物をするという、「律法」に定められた通りにしなさいというイエスの指示に従いません。堂々とイエスのことを宣べ伝え始めます。二人のやり取りは実にちぐはぐです。

またこの記事は、マルコ福音書の他の記事の内容とフィットしません。ここでイエスが怒っているのは、男が律法に定められていることを破って、イエスに会いに来たからだと考えられます。だとすると、この記事の中のイエスは、律法に対して厳格で、それを守らない男に対して厳しい態度を取る、そういうイエスです。でも、マルコ福音書が他の箇所で証言するイエスはそんな人ではありません。むしろ逆に、人のために平然と律法を破るような人です。律法から自由だったからこそ、律法をもっとも大切なものと考える人々の反感を買って十字架刑に処せられてしまったのです。こんなことになってしまったのは、マルコがイエスについての言い伝えを、奇跡物語の一つとしてここに採用してしまったからだと考えられています。著者のマルコにとっては、奇跡を起こしても「誰にも言うな」と謙虚な姿勢を見せていることが、現実のイエスと重なったのかもしれません。

こんなふうに、この記事は、記事の内側でも外側でも、ちぐはぐで、ぎこちない内容です。でもこのぎこちなさと、ちぐはぐさから、大切なものが浮かび上がってきているように思います。そのひとつは、律法に厳格だという、なんだかおかしなイエスとの関わりの中で、一人の無名な男がイエスの証言者として立てられて行くということです。もうひとつは、マルコが証言している、相矛盾するイエスの姿の中に、人々の中にいろいろな姿で記憶されて行った、活き活きとしたイエスの姿が逆に示されているということです。一人の読者として、イエスの証言者、著者マルコに向き合う時に、変に理想化された、綺麗ごとの救い主ではなくて、一人の人を生かそうとする、一人の人として生きるイエスの姿が、そこに活き活きと浮かび上がってくるような気がするのです。

砂連尾理(じゃれおおさむ)さんというダンサーが、特別養護老人ホームで始めた「とつとつダンス」というワークショップがあります。砂連尾さんがそこで出会った、ミユキさんという認知症の女性等と一緒に発表会も催しています。実際にその公演を観た、西川勝さんという臨床哲学者がそのダンスをこう表現しています。「ダンサーが認知症の世界に入って行くのではない。ダンサーが勝手に彼女の内面を代弁しているのではなく、彼女の見えない表現に魅せられて、思わず差し出してしまった自分の身体が二人のダンスになって、観客に見えるようになった、だけなのだ」(『となりの認知症』77頁)。つまり、このダンスは砂連尾さんとミユキさんの身体が織りなしている交流を表現したものだと西川さんは言うんです。

(座っているのがたぶんミユキさんではないかと)

「とつとつ」という言葉は、「つかえつかえ」「引っかかりながら」というような意味で用いられる言葉だそうです。「とつとつダンス」の「とつとつ」がそういう意味で使われているのかどうかは分かりません。でも、認知症でコミュニケーションを取ることが難しいミユキさんに対して、互いに通じ合わない中で、砂連尾さんが自分のすべてを賭けて、通じ合わない痛みを感じながら、相手に近づいていく、その動きの中で、つかえつかえ、引っかかりながら、ためらいながら、ぎこちなく、ミユキさんとの間で起こっている出来事を形作っているということなんだろうなぁと僕は思っています。でも、ただ、ぎこちないんじゃなくて、そのぎこちなさの中で、大きなエネルギーが費やされて、活き活きとした何かが作り出されているんです。

こうした「とつとつ」を損なうものは、平和を損なうものだと僕は思います。引っかかりながら、つまづきながら、とつとつと織り成される意味や世界こそ、「平和」につながるものだと僕は思うんです。皮膚病の男とイエスとの間に表われているぎこちない世界、福音書の著者マルコとイエスとの間に表われているちぐはぐな世界も同様ではないでしょうか。そこに、名もない男が証言者として立てられて行く姿が生き生きと語られ、現実のイエスの姿がとつとつと現われてきています。でも、こういう「とつとつ」は、ちょっとした力でいとも簡単にかき消されてしまうものです。だから僕は、こういう「とつとつ」を一番大事にして行けたらいいなぁと思っています。「とつとつ」は恰好悪いし、時間がかかるし、疲れるし、面倒くさいんです。でも、人と人が向き合うっていうのは、そういうことなんじゃないでしょうか。人と人が、引っかかり合いながら、戸惑いながら、ためらいながら向き合って、そこに小さな意味と新しい世界を創り続けることの方が、世界を平和にすることには近いんじゃないかと、僕は思っています。「とつとつ」をかき消す力に抗うために、「わたし」たちの弱さを結び合わせることができますように。

(以上、お話の要約)

礼拝後、午後2時30分からは、東梅田教会で中部地区の平和礼拝が行われました。

次週は、「主の食卓礼拝」です。礼拝の中で一緒に食事をします。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記21章7~16節、牧師からのお話のタイトルは「喜びの道」です。どなたでもぜひどうぞ。

午後からは、教会の子供たちのお泊り会を予定しています。天気が心配です。

報告:山田有信(牧師)

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