2014年8月17日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第11主日でした。

教会のショウウィンドウ。メンバーのOさんが季節に合わせて整えてくださいます。

教会のショウウィンドウ。メンバーのOさんが季節に合わせて整えてくださいます。

第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・マタイによる福音書5章9節を読みました。メンバーのOさんが、いわさきちひろ作「戦火の中の子どもたち」という絵本を朗読して、「めのまえにあるへいわは」というタイトルでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録19章21~27節を読んで、牧師から、「儲かってますか?」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

新約聖書の時代、アジア地方と呼ばれていた地域のエフェソという町には、アルテミスという女神の像を祀るアルテミス神殿があって、多くの参拝者でにぎわっていました。今日の聖書箇所によると、そこでは神殿の銀の模型が土産物として売られていて、職人たちはぼろ儲けしていたようです。ところが、使徒パウロはどうやら像を拝むことを批判していたようで、パウロに従ってキリスト者(クリスチャン)になる人々が増え、神殿の銀細工が売れなくなってしまうことを職人たちは恐れていました。職人たちは、アルテミスの像を信仰するのか、イエスの信じた神を信じるのかという信仰問題を気にしているのではなくて、ただ儲けが失われてしまうことを恐れているのです。生業は大切です。でも、神の像を祀る神殿の模型を売ることでぼろ儲けしてもよいのでしょうか。答えを出すことは困難です。

風立ちぬのポスター

風立ちぬのポスター

先日、「風立ぬ」というアニメーション映画を観ました。「風の谷のナウシカ」や「となりのトトロ」という映画を作った宮崎駿という監督のたぶん最後の作品です。この映画は、堀越二郎という実在の、飛行機の設計者をモデルにした物語です。堀越は「ゼロ戦」と呼ばれる戦闘機の設計者として知られています(僕も「ゼロ戦」は好きです)。映画の中でも、二郎は飛行機の設計家で、軍からの注文を受けて小型の飛行機を設計しています。映画の中の二郎は、ただ美しい飛行機を造ることを願う人物です。自分が設計した戦闘機が出陣して戻ってこなかったこと、つまり味方も敵も含めて、その生命を奪いとる道具として使われることに心を痛めています。映画の中盤にとても象徴的なシーンがあります。二郎はよく夢を観るんですが、その夢には必ずカプローニというイタリアの飛行機の設計家が出て来ます。その夢のひとつの中でカプローニは二郎にこう言うんです。「君はピラミッドのある世界と、ピラミッドのない世界のどちらが好きかね?」。すると二郎はこう答えます。「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています」。「ピラミッド」というのは、それが無くても人が生きて行けるという意味で、人間にとって必ずしも必要なものではありません。でもピラミッドは人を惹きつける美しさを持っていると思います。もっと言えば、「ピラミッド」は、人にとって必ずしも必要ではないどころか、人を殺すものでさえありました。ファラオの命令で、多くの人が強制労働に駆り出されました。そうでなければ、造れるはずもないものです。人の生命を削り奪うものなんです。そういう意味では、飛行機も同じです。飛行機が無くても人は生きて行けますし、飛行機は戦争の道具にされますから、かえって人を殺すものでさえあります。でもそれでも、カプローにも二郎も、ピラミッドのある世界を望むんですね。物語の中で二郎は、自分が心血を注いで生み出そうとするものが逆に人の生命を奪ってしまう、この矛盾を抱えながら生きます。そんな矛盾から少しでも逃れようとしたのでしょうか、ある夜、二郎は仕事帰りに、ひもじくしている子供たちにお菓子を与えようとしますが、それもうまく行きません。それどころか、設計の仕事の傍らで二郎は病身の妻に無理をさせすぎて死なせてしまいます。でも二郎は、自分の設計した飛行機が人の生命を奪う道具にされることを知りながら、それでも美しい飛行機をとことん追求して、作り続けるんです。「風立ちぬ」は、矛盾を矛盾のまま描き、誰にも解決などできないその矛盾の重さを表現した作品だと僕は思いました。

アルテミス神殿の銀細工を作っていた職人たちがどんな心意気を持っていたのか分かりません。中には自分の腕や仕事に誇りを持って、技術を磨き続けていた職人もいたかも知れません。儲けを度外視して、神殿の精巧な模型を作ることに情熱を注いでいた職人もいたかも知れません。ただ、今日の聖書箇所に出てきているデメトリオという職人には、そんな心意気を感じ取ることが僕にはできません。

イエスならどうするでしょうか。イエスは、エルサレム神殿の境内で暴れて、献げ物を売る商売の邪魔をしました。そして商売人たちを「強盗」呼ばわりしました。その商売が、貧しい人々から搾取して、一部の人々を豊かにする構造によって成り立っていたからです。そんなイエスがもしまだ生きていたら、アルテミス神殿でも暴れたかも知れません。美しい飛行機も、ピラミッドも壊してしまうかも知れません。それらがみな、人を食い物にするものだからです。

これさえしていれば、人を傷つけることもないし、自分が飢えたり苦しんだりすることもないという正解は、この世界にはありません。どんな仕事をしていても、どんな生き方をしていても、誰かを傷つけ、誰かを虐げ、誰かを苦しめることになります。そのことから誰も逃れることはできません。そして、救い主と信じるイエスは、人を貪り、人を虐げることを、決して許すことはありません。そのことに、わたしたちはさらに苦しむことになるでしょう。もっと言えば、神はそんなイエスを十字架につけて死なせてしまうような神です。こうすれば、清く正しく、苦しみのない人生を送ることができるという答えをイエスでさえ知らないのです。

美しさ(好むモノ)を求めて生きる者は、それと同時に永遠に答えを求め続けて生きねばならないということではないでしょうか。それは、安易に答えを求めたり、安易な答えにすぐに乗っかるのではなくて、矛盾を抱え続けながら生き続けることを、わたしたちは求められているということだと僕は思います。矛盾と共に生きることができますように。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後は、会堂の清掃、定例役員会を行いました。皆様のご協力に感謝します。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第12主日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記21章17~26節、牧師からのお話のタイトルは「死は平等なのか」です。どなたでもぜひどうぞ。

報告:山田有信(牧師)

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