教会の暦では聖霊降臨節第13主日でした。
第1部の子供の礼拝の中では、旧約聖書・創世記22章11~12節を読みました。牧師から「しゅのやまにそなえあり」というタイトルでお話をしました。アブラハムが、ようやく授かった一人息子のイサクを、焼き尽くす献げ物として神に差し出そうとするお話です。アブラハムは神に命じられたことを忠実に実行しようとします。でも、このお話の強調点は、神の命令に従うことにあるのではないと思います。世界のすべてが神に備えられたもので、神はまたそのすべてに眼を配って心に留めているというところに強調点があるのです。神がすべてを与え、そして奪い去って行く、そういう世界の中で、わたしたちは、自分が何を考え、どう行動するのか、アブラハムのように、自分自身で考えなければなりません。
第2部の礼拝の中では、新約聖書・マルコによる福音書1章14~15節を読んで、牧師から、「辺境の地へ」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
イエスは活動を始める時に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と告げた、マルコ福音書の著者マルコはそう記しています。「神の国」が今そこに近づいていると言うんです。でも「神の国」っていったい何でしょうか。それは、人が本来あるべき姿で生きることのできる状態のことだと僕は考えています。
マルコ福音書のイエスは「神の国」について何度も語っています。例えば4章26節のあたりでは、人が知らない間に芽を出して成長しやがて実を結ぶ、そんな種のことをイエスは「神の国」として語っています。また10章14節あたりでは、「神の国」は大人に叱られるような子供たちのものだとイエスは言っています。信じがたい言葉です。「神の国」は、いつのまに成長して実を結ぶ種じゃなくて、努力して能力を身に着けて立派な働きをする一人前になって行く、そういう積み重ねの先にあるもの何じゃないでしょうか。鼻を垂らして騒ぎ立てている子供のものじゃなくて、分別を持って穏やかに振舞う大人のものなんじゃないでしょうか。イエスは違うと言うのです。イエスの告げる「神の国」をもし一言で言い表わすとしたら、それは「可能性」だと僕は思います。人は誰でも生まれたままで、もう「可能性」を持っているんです。それを失わず、邪魔されることなく、それを育てることができたら、そこに「神の国」は実現する、イエスはそう考えたんだと思います。
そんな「神の国」が「近づいた」、もう今そこに来ているとイエスは言います。「わたし」たち一人一人が、自分のもつ「可能性」に従って、ありのままに生きる世界が、今そこにあるということです。でもそれは本当でしょうか。イエスが「神に国」の到来を告げたのは、イエスの生まれ故郷ナザレのあるガリラヤ地方でした。当時のガリラヤ地方の人々は、ユダヤ中央部の人々からは蔑まれていました。かつて他国の支配を受けたことがあり、純粋なイスラエルとは見なされていなかったのです。また、ガリラヤ地方の農民たちは貧しい小作農でした。課せられていた税と旱魃、そしてユダヤ人として、遠く離れたエルサレム神殿に巡礼しなければならないことなどが、ガリラヤの農民たちを貧しくさせていたのです。また農民たちは自分たちの土地を都市のお金持ちに売って、さらに借金をしながら、生活を続けていました。そんなガリラヤの現実のどこに「神の国」が来ているとイエスは言うんでしょう。イエスの告げた言葉は誤解されても仕方がない状況だと思います。「神の国」が近づいているから、だからもっと働いて、律法に従って、ユダヤ人としての義務を果たしなさいという言葉だと思われる恐れもあったはずです。イエスではなく、当時のユダヤ教の指導者たちだったら、きっと「神の国は近づいた。悔い改めて、律法に従いなさい」と言ったはずですから。
でもイエスは「律法に従いなさい」ではなくて、「福音を信じなさい」と言っています。ところで、「福音」とは何でしょうか。マルコは、イエスの言葉、イエスの行いのすべてだと理解しています。それは、ガリラヤ地方の小作農ら、ユダヤ社会の中で律法や偏った見方をされることで苦しんでいた人々を解放して、その人が本来生まれ持っている「可能性」を取り戻すということではなかったでしょうか。イエスはそのために、隣人と食卓を囲み、一人一人の「可能性」を取り戻すという奇跡を起こして行ったんだと思います。イエスは人が本来与えられている「可能性」に賭けたんです。ですから、「福音を信じなさい」というイエスの言葉は、言葉を変えて言うとしたら、イエスがすべてを賭けて取り戻そうとした、人それぞれが持って生まれた「可能性」、それを信じなさいということだと僕は思います。
本来の自分というものは、どんな問題があっても、どんな苦しみ痛みがあっても、決して失われることはないんだと思います。それはただ見失われているだけであって、簡単ではないけれども、取り戻すことができるんです。著者マルコの記す、イエスが告げた「福音」を信じたいと思います。「わたし」たち一人一人は小さい存在です。けれどもイエスは、人の「可能性」を信じて、そこにすべてを賭けて、「わたし」たち一人一人がありのままに生きるべきだと受け入れました。「わたし」たちが、主イエスに今、支えられていることを、今そこに近づいている「神の国」に相応しい者であると信じます。「わたし」たち一人一人それぞれの「可能性」を取り戻すために、それを見失ってしまう弱さを持ち寄って、互いに支え合って、主イエスの道を歩むことができますように。
(以上、牧師のお話の要約)
礼拝後は、ほっとコーヒー・タイム。DVD「ナザレのイエス」の続きを30分ほど鑑賞しました。
次週は、教会の暦では聖霊降臨節第14主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録19章28~40節、牧師からのお話のタイトルは「熱狂と興奮の中で」。礼拝中、出入り自由です。どなたでもぜひどうぞ。
報告:山田有信(牧師)