教会の暦では聖霊降臨節第14主日でした。
第1部の子供の礼拝の中では、旧約聖書・創世記24章2~4節を読みました。牧師から「イサクのけっこん」というタイトルでお話をしました。アブラハムの一人息子のイサクがリベカと結婚するお話です。この話にはおかしなところがいくつかあります。アブラハムは住んでいる土地カナンでイサクの結婚相手を探すことは避けました。結婚相手を親が探すというのもどうでしょう。イサクが結婚すると、アブラハムはイサクの兄弟を追い出してしまいます。首を傾げたくなることばかりです。でもこのお話を作った人は、そこに神さまが生きて働いていると信じています。聖書に書いてあればすべて本当のことだとは言えません。間違ったことも書いてあります。人が願ってその通りになったらそれは神さまのおかげだとも言えないでしょう。でも、この世界で起こることすべてに神さまが関係しているというのは本当だと僕は思います。だから世界で起こるすべてのことの意味を僕は考えて行きたいと思っています。正解はないし、答えもないかも知れません。でも、どうしてこういうことが起こるのか、なぜこんなことになるのか、そのことはずっと考え続けたいと思います。生きていると、うれしいこともあるし、つらくて悲しいこともあります。神さまがどうしてそういうことを起こすのか、そのことを皆さんと一緒に僕は考えて行きたいです。
第2部の礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録19章28~40節を読んで、牧師から、「熱狂と興奮の中で」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
友人がインターネットやスマートフォン(多機能携帯電話、以下スマホ)の契約の話がよく分からないと言うので、僕はある家電量販店へ付き添って行きました。友人の望みはインターネットの環境を良くすることでしたが、結果的に友人はスマホを機種変更することになりました。最初に友人が今のネット環境を説明すると、店員さんは親身に相談に乗ってくれて、一生懸命考えていくつかのプランを出してくれました。説明に納得してその中のひとつのプランを選び、それに付随して必要になったスマホの機種変更のために、案内された別の会社のコーナーで別の店員さんが機種変更の手続きをしてくれることになりました。この店員さんもよくできる方でした。説明は分かり易く、話はトントン進んで行きました。ところが、友人が今まで使っていたスマホをどうするかということを巡って僕らは少し戸惑いました。僕は古いスマホはもう使う必要がないと思ったのですが、店員さんは別の契約を結んで使い続けてはどうかと提案してきたのです。僕は必要ないと思いましたが、使い続けても、発信しなければほぼ費用はかからず、遠方の家族や友人にプレゼントして無料で通話してはどうかと言うのです。結局友人は店員さんの勧めに従って古いスマホを使い続ける契約をしました。
でもなんとなく腑に落ちなかった僕は家に帰ってネットで少し調べてみました。店員さんの話に嘘はありませんでした。契約期間中に解約しない限りお金はかかりません。だから使いようによってはお得かも知れません。でも本当の目的はおそらく契約回線の数を増やすことです。通常は機種変更しても契約回線数は変わりません。でもこの方法なら機種変更をするたびに契約回線数はどんどん増えて行きます。携帯電話の会社(キャリア)にとって契約回線数は業績に直結する数字です。これが増えれば業績が上がっていることになって、株価があがって利益につながるのです。本当の目的はこちらにあるのだと思います。たぶん店員さんたちは、こんなことは知っているはずだと思います。でもお客さんにはそのことは言わないで(言えば契約しない人もいるでしょう)、お客様にとって得であることだけを強調して契約を取るわけです。店員さんたちは優秀で気持ち良く接客してもらいました。でも僕は二人の店員さんや他の店員さんたちの行く末がちょっと心配です。どうしてかと言うと、本当のことは言わないで、お客さんにとって利益になるようなことだけを言って契約を取るということを、彼らはこれからも毎日毎日何回も何回もしていくことになるからです。決して詐欺ではないし、そんなに悪質なことでもない、むしろ当たり前のことなのかも知れません。でもそれはやっぱり自分を欺くということです。それを繰り返していると、いつの間にかそれが当たり前のことになってしまって、自分が自分を欺いていることにもやがて自分で気付けなくなって行くと思います。僕はそれが心配なのです。
紀元一世紀のエフェソという町にはアルテミス神殿という大きな神殿ありました。そして職人たちが銀細工の神殿を作って参拝者に売って儲けていました。ところがそこに使徒パウロがやって来て、アルテミス神殿の女神アルテミス礼拝は偶像崇拝だと批判したようです。すると、職人の一人が儲けがなくなってしまうことを恐れて声を挙げます。やがて、多くの職人たちも怒り出して、エフェソの町中が騒動になります。パウロは難を逃れましたがパウロの仲間が連れて行かれて、野外劇場での大きな騒動になって行きました。そのままだったらパウロの仲間がどうなっていたか分かりません。でもそこに冷静で、それなりに権力を持っている町の書記がいて、興奮する群衆を鎮めたために、何とか事なきを得て騒動は収まります。
なぜこんな騒動が起きたのでしょう。発端はパウロです。でも本質は、職人たちが儲けが無くなることを恐れたことにあります。彼らにとって女神への信仰は問題ではないのです。アルテミスという女神は豊穣や金融の神さまだったそうですが、その神殿にお参りに来ることが、本当に豊穣をもたらしたり、商売を繁盛させたりすることには、必ずしもならないっていうことを、彼らは知ってるんです。もしそれが信仰の問題なら、彼らはパウロとじっくり話せばよいはずです。でもすぐに怒って騒ぎ出すのは自分たちの儲けを心配しているだけだからです。
このエフェソの騒動は、二つのことを示していると僕は思います。一つは、パウロが宣べ伝えている「福音」は、ただ本当のことだけを求めるということです。イエスはそれだけを求めて、当時のユダヤ教や、ユダヤ教の律法を守って生きるという「当たり前」のことが、実はまやかしの上に成り立っていることを顕わにしました。パウロは別に、キリスト教以外の宗教がダメだと言いたいんじゃなくて、本当のことを語らざるを得なかっただけだと思います。そしてもう一つ、それは、なんとなくどこかで自分がまやかしの上に生きている、どこかで自分を誤魔化しているということに気づいていても、それを認めるのは相当難しいということです。痛いところを突かれると、人はなぜか怒り出して、それが大勢集まると、群衆は暴徒と化して、本当のことを語る人を虐げて、生命さえ奪ってしまうことがあるんです。
そうならないように、「わたし」たちは一人一人よくよく考えて行く必要があると思います。その時に「わたし」たちにとって基準になるのは、「わたし」たちの主イエスがどう生きたかということだと思います。イエスが何を考え、何を一番大事にして、どういう行動を取って行ったのか、そのことが、「わたし」たちの指針になります。ただそれを知ったとしても、「わたし」たち自身が、考えを改め、生き方を変えることは並大抵のことではありません。でも、それでも「わたし」たちはイエスの示した「福音」、パウロが告げた「福音」を胸に、人の作ったまやかしの上を生きるんではなくて、「わたし」たちに本来与えられている、「わたし」たちそれぞれの真実(本当のこと)を生きて行きたいと思います。
(以上、牧師のお話の要約)
礼拝後は、クリスマス・イブの礼拝で歌う讃美歌の練習をしました。メンバーのNさんがリードしての練習です。これからクリスマスまで練習を続けます。どなたでもぜひご参加ください。
次週は、教会の暦では聖霊降臨節第15主日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記21章27~34節、牧師からのお話のタイトルは「なぜ慰めるのか」。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習の予定です。どなたでもぜひどうぞ。
報告:山田有信(牧師)