教会の暦では聖霊降臨節第15主日でした。
第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・ヨハネによる福音書15章1~2節を読みました。メンバーのOさんが「イエスにつかまる!」というタイトルでお話をしてくださいました。
第2部の礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記21章27~34節を読んで、牧師から、「なぜ慰めるのか」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
多くの人は「因果関係」を見つけるのが大好きです。ある人が今どうしてこのような状態になっているのか、その原因や理由を探すのが大好きなんです。どうしてそんなことをするのか、その理由は分かりません。そもそも答えなんてあるのかどうかも分かりません。でも多くの人がそれを追い求めます。もしそういう想いが全くなかったら教会は無くてもいいのかも知れないし、教会に来る人も居ないのかも知れません。けれども、そういう想いを利用して一儲け企んだり、いかにもおためごかしに答えを教えてくれる団体や人も多くあります。例えば、ご先祖様や家族に対する供養が足りないからとか、お墓の向きが悪いからとか、あるいは開運グッズなるものを身に着けなさいだとか、こういうスポットに行ってみなさいとか、無数の答えがこの世の中には用意されています。そしてそれらすべてが悪いとも言えませんし、でも教会も気を付けていないと、同じようなことをしてしまう危険があります。「教会につながっていれば大丈夫」なんてついつい思ったり言ったりしてしまいますが、「先祖供養をきちんとしておけば」という話と大差ありません。
ヨブ記という書物は物事の因果関係の問題に取り組んだ書物です。物語の中でヨブという人が何の理由もなく苦難に喘いでいます(尋常な苦しみではありません)。その苦難の原因が何にあるのか、その問題にヨブ記は向き合うのです。ヨブの友人は、神に逆らう者がどんなに栄えて幸せになったとしても、それは束の間のことで、やがてその人は死んでしまうだろう、神の報いを受けることのなるだろうと言います。つまり苦難の原因は人間の過ちにあると言いたいのです。でも今日の箇所でヨブはそれに反論しています。ヨブは、神に逆らう者が報いを受けているように見えるとしたら、それはあなたがたがそれを見落としているだけだと言います。神に逆らう者の家や天幕が滅んで報いを受けたように見えたとしても、実は神に逆らう者は立派な墓に葬られ、見張りが必要なほどの埋葬品に囲まれ、多くの人々にその死を悼まれているのを見逃しているだけだと言うのです。つまり、ヨブ記の作者はヨブを通して、神に逆らう者は神の報いなど受けていない、それどころか死んでも満たされている、だからヨブの苦しみの原因だって神への背きにあるのではないと言っているんです。
では、ヨブの苦難の理由は何でしょう。ヨブは自分の苦しみを神の正義の問題だと考えています。だからヨブはずっと神に問いかけ続けて来ています。ところが神はここまで何も答えていません。沈黙を守っています。その神が突然語り始めるのは、物語のまだだいぶ先のことです。ヨブ記の著者は何を伝えようとしているんでしょうか。著者はこのヨブ記の全体を通して、人の苦しみは神の正義の問題で、人はそのこと(こんな苦しみを許している神は義しいのか)を神に問い続けなければならないと言っていると思います。そして人はその苦しみの理由を自分自身で考え続けなければならないと伝えようとしているんだと僕は思っています。病気や事故や災害、戦争や紛争によって、どうして人が苦しまなければならないのか、それはやっぱり神の正義の問題なんです。「神さま、どうしてこんなことが起こるんですか。これでいいのですか」と神に問いかけ続けなければならないことなのです。
人が何かやらかしてしまった罪のせいなんですとか、供養が足りないとか、運が悪いとか、そんな安易な答えを求めたり、安易な答えに走ったり、安易な答えにすがったりするんじゃなくて、神に問い続けて、自分で考え続ける他ない、それがヨブ記の作者がたどり着いた答えなんです。それは例えば、急な病に見舞われて仕事ができなくなってしまった人が、何か善くないことをしたから病気になってしまったんだ、身体の自由を奪われてしまったんだと考えて、一生懸命その何か善くなかったことを取り消そうとしたり、取り繕おうとするんじゃなくて、その病によって、それまで仕事を理由に向き合うことのなかった家族とじっくり向き合って、ぎくしゃくしながら、でもそれまでは知らなかった家族の想いを知るようになって行ったとしたら、自分の病によって家族が新しくされて行ったということに、自分と家族で新しい意味を見いだして、病と共に前に進んでいく、そのようなことなのかも知れません。
イエス・キリストはヨブ記の作者の考えを受け継いでいるんじゃないでしょうか。だから、例えば病気や身体の障害を、その人の罪のせいにされて、さらに苦しんでいた病人や身体が不自由な人に、生まれたままで生きていいんだ、罪なんかのせいじゃないんだって言ったんだと思います。そして、苦しむ人と共に生きて、苦しみの意味を一緒に考えようとしたんだと僕は思っています。「わたし」たちは、ヨブ記の作者やイエスと共に、「わたし」たち自身の苦しみの理由を神に問い続けながら、その苦しみの意味を自分自身や隣人と一緒に考え続けたいと思います。人の苦しみの意味を共に見出して行くことができますように。
(以上、牧師のお話の要約)
礼拝後は、クリスマス・イブの礼拝で歌う讃美歌の練習をしました。この日はメンバーのTさんがリードしての練習でした。これからクリスマスまで練習を続けます。どなたでもぜひご参加ください。
次週は、教会の暦では聖霊降臨節第16主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録20章1~12節、牧師からのお話のタイトルは「わたしを呼ぶ声」。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習、会堂清掃、定例役員会の予定です。どなたでもぜひどうぞ。
報告:山田有信(牧師)