2014年9月21日主日礼拝報告

スコット・ルートレイさん(BBC)

スコット・ルートレイさん(BBC)

教会の暦では聖霊降臨節第16主日でした。

第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・ マルコによる福音書3章31~35節を読みました。メンバーのOさんが「イエス様のお母さん」というタイトルでお話をしてくださいました。実際のところ、イエスとイエスの家族の関係はどうだったんでしょうか。興味津々です。

第2部の礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録20章1~12節を読んで、牧師から、「わたしを呼ぶ声」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

あるニュースを知りました。交通事故に遭って、いわゆる「植物状態」と診断され、他者とコミュニケーションをはかることはできないとされてきた、カナダのスコット・ルートレイさんという方が、実は意識があり、他者からの働きかけに反応し、考えて、答えようとしていると、fMRIという診断装置で脳内の血流を調べることによって分かったというニュースです。スコットさんには意識があるとご両親は訴えて来たのですが、交通事故から実に12年の間、病院ではそのことが認められてきませんでした。このニュースは医療の限界を示すと同時に、医療の発達を示すものでもあります。でも僕が考えさせられたのは、そんな大がかりな診断装置を使わなくても、スコットさんに意識があって、指を動かしたり、目を動かしたりして、意志の疎通をはかっていたことをご両親はずっと前から知っていたということでした。

http://www.bbc.com/news/health-20268044

でもわたしたちには、スコットさんが入院していた病院を責めることはできないのかも知れません。わたしたち自身にも人の「死」のようなものを決めつけてしまうことがたくさんあると思うんです。考えてみると、そんな「死」のようなものを決めるレースが、ずいぶん幼い時から始まっています。例えば、生まれてくる(生まれる前の!)子供に「障害」と呼ばれる何かが見つかると、もうその子の人生は終わりだと決めつけられます。同様に、学校に行かなくなったら人生は終わりとか、仕事に就けなかったらその人はもう終わり、社会に出ないいわゆる引きこもりになったらもう終わり、会社や仕事を辞めざるを得なくなったらもう終わり、重い病気に罹ったらもう終わり、身体が痛んだり動かなくなったらもうだめ、認知症になってボケたらもう終わり、そんなことを他者に対しても自分自身に対しても、わたしたちはどこかで思ってしまっていて、いつのまにかそんなレースを戦っているんじゃないでしょうか。でもスコットさんの場合のように、実際にはそんな「死」はどこにもありません。どんな状態になっても、人は生きています。その人とその人に向き合う人との間で生命は生き続けているんです。

ある雑誌(「現代思想」2013-08、青土社)で読んだ、木村敏さん(精神科医)と西村ユミさん(看護学の研究者)の対談の中で語られていたことです。ある看護師さん担当の急性の白血病の患者さんが、ある日、その看護師さんが勤務を終えて帰った後に、病気や治療の苦痛に耐えかねたのか自死されたそうです。その看護師さんは非常に強いショックを受けて、自分がしてきた看護に意味があったのかどうかを繰り返し問い続けたそうです。ところが、その看護師さんに対して西村さんがインタビューを繰り返すうちに、やがてその患者さんの死が、その看護師さんには別の意味を持って現れるようになったのです。それは、その患者さんの自殺が、看護師さんを責めるようなものから、看護師さんの今の別の患者さんに対するケアについて、問いかけるものに変わって行ったということなんです。自分で自分を問う出来事から、亡くなった患者さんに問われる出来事へと変わったのです。「今受け持っている患者さんの前にあなたはちゃんといることができているのか」と、自殺した患者さんがいつも問いかけているような気がする、そういう感覚になって行ったそうなんです。西村さんによると、それは自殺した患者さんが、看護師さんにとっては今も決して亡くなっていないってことなんです。僕もそう思います。医学や医療が決める肉体的な「死」も、一人前の人間としてもうだめだっていう意味での「死」も同様です。それは、その相手に向き合う誰かとのあいだでは、決して「死」ではない。誰かが一方的に決める「死」によって、何も終わったりはしないということです。

使徒パウロがトロアスという町を出立してエルサレムに向おうとする前の晩のことです。おそらくあまりエルサレムに行きたくないパウロは、そのせいもあるのか、なおさら熱心にトロアスの人々に昼夜を問わず語りかけています。パウロの話を聴いていた一人の青年が眠気を催して建物の3階の窓から落ちてしまいます。それを見ていた人々はその青年が死んだと勘違いしました。「パウロ先生の話を聞きながら寝るなんて、なんて罰当たりな。自業自得だ」という気持ちが人々にはあったんじゃないかと僕は思います。人々はその青年に「死」を宣告したんです。でもパウロがその青年に近づいて見ると実はその青年は生きていました。

この出来事が、パウロがイエスのことを語り、イエスの身体を想い起すパン割き(パンをイエスの身体として分かち合うこと)をし、またイエスのことを語るという営みの中で起こっていることが、とても意義深いと僕は思います。イエスは「人が生きている」ということを身を持って示した男です。イエスの時代ユダヤの人々は、貧しい人や病気の人、身体の不自由な人に「罪人」というレッテルを貼って、そういうのはもう終わった人だと考えて近づくことさえしませんでした。でもイエスだけは違っていました。ユダヤ教の律法という決まり事で言えば、彼らは当然「罪人」で、それを疑ったり、それに従わない人なんて誰もいない中で、イエスは「罪人」というレッテルを貼られた人たちに近づいて、「あなたの罪は赦される」(マルコ福音書2章5節)と語ったんです。それは言い換えるとしたら「あなたは決して終わっていない。あなたは生きている」ということだと僕は思います。

イエスが「罪人」と呼ばれた人々とのあいだでそれを示したように、人と人のあいだにある限り、人は「死」と呼ばれるものからさえ自由です。医学だろうと、検査装置だろうと、法律であろうと、誰も人を「死」に定めることはできません。人と人のあいだにある限り人は生きるんです。使徒パウロとトロアスの人々がイエスを語り、イエスの身体を割いて分かち合うことの中でそのことを確かめたように、わたしたちも、人が生きていることを示すイエスの言葉、イエスの身体、神の示す生命を今日ここで一緒に感じ取りたいと思います。生命へと呼びかけられている者として共に生きることができますように。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後は、クリスマス・イブの礼拝で歌う讃美歌の練習。この日はメンバーのNさんがリードしての練習でした。これからクリスマスまで練習を続けます。どなたでもぜひご参加ください。讃美歌練習の後は、会堂清掃と定例の役員会を行いました。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第17主日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記22章1~11節、牧師からのお話のタイトルは「郵便ポストが赤いのも…」。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習、ほっとコーヒータイム。ほっとコーヒータイムでは、DVD『ナザレのイエス』を30分ほど鑑賞予定です。讃美歌練習、ほっとコーヒータイムに、どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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