2014年9月28日主日礼拝報告

Mさんが献げてくださったお花

Mさんが献げてくださったお花

教会の暦では聖霊降臨節第17主日でした。

第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・ マルコによる福音書10章13~16節を読みました。メンバーのIさんが「じゅげむ じゅげむ その2」というタイトルでお話をしてくださいました。和尚さまを牧師に読み換えての朗読でした。和尚さまは実際どれくらい名前をつけるんでしょう。

第2部の礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記22章1~11節を読んで、牧師から「郵便ポストが赤いのも…」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「空がこんなに青いのも、電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあたしのせい」。これは僕の祖母の口癖でした。祖母は落語が好きでした。その影響を受けたのでしょう。何でもかんでも自分のせいにして開き直るような態度を示す言葉だと思いますが、落語から出たものだからでしょうか、あまり嫌味な感じはしません。でもこれが「みんなあんたのせい」というものだったらどうでしょう。もし人からそう言われたら、けっこう堪えるんじゃないかと思います。占いなどではよく「あなた今人間関係で悩んでますね」とか、「恋愛がうまくいってませんね」とか、そんなセリフを使います。そうすると結構多くの人がドキッとするそうです。「当たってる」ということになるんです。でもよく考えてみると、たいていの人はいつも人間関係に悩んでいるものですから、それが当たるのは当たり前のことです。でもそれでも占いというのはいつの世でももてはやされていて廃れる気配はありません。けれども普通の占いくらいならまだましかも知れません。ところが、こういうことは基本的にまず相手をだますことから始まってますから、どうしてもよろしくない方向に進んでいってしまいます。「カルト宗教」と言われるような宗教集団も必ずこの手を使います。まずは「世界中にこんなに貧しくて苦しんでいる人がいるのはあなたのせいです」、「この矛盾や問題を解決するために、あなたは生き方を変えなければなりません」なんてことを言います。そう言われると、たぶん、多くの人がドキッとすると思います。真面目な人ほど堪えると思います。

これは難しい問題です。このように人をだましてコントロールして利用しようとする言葉はすべてが嘘という訳じゃなくて、本当のことも含まれているからです。例えば貧困に喘ぐある国の子供たちとわたしたちには関連があります。わたしたちの国が、ある国から原料や資源になるようなものを安く買いたたいて、何かを造って高く売って儲けることでわたしたちの国を豊かにしているとしたら、ある国で貧困に喘ぐ子供たちとわたしたちとは決して無関係ではないわけです。ですから「それはあなたのせいだ、あなたの罪だ」というのは必ずしも全てが嘘ではありません。そういう状況を許しているわたしたちに責任はあるからです。でも誰かがそのような社会の問題の責任を個人に突き付けて、その人をコントロールしようとするのは間違いです。でも「カルト宗教」と呼ばれるような集団は必ずそれをします。多くの人が持っている、世の中や人々に対するうしろめたさのようなものを突いて来て、人の罪を徹底的に責めたてます。そしてその罪を償うためにと言って人の行動をコントロールします。それはやがて「本当に悪い奴はあいつらだから、あいつらを殺してしまおう」ということになって行ってしまうんです。最初は世の中の矛盾を何とかしたい、苦しむ貧しい子供たちを救いたいという思いから始めたことなのに、いつの間にかあいつらを殺してしまえになってしまうんです。そういったことに対してわたしたちは誰でも関係はあるし責任の無いことではないけれども、でもそれはわたしたちの「罪」ではない。そこははっきりさせておく必要があります。世の中の矛盾や多くの人の苦しみは、わたしたちが、誰かに決められた何かをして行けば解消される問題ではないし、特定の誰かや集団を攻撃すれば無くなる問題でもない。それはわたしたち一人一人が自分で考えて、自分で向き合って行くべきことで、人からとやかく言われたり、人にとやかく言うことではないと僕は思います。

じゃぁ「罪」って何でしょうか。イエスは、例えば金持ちの人には、それを売って貧しい人に施しなさいと言っています(マルコ10章17節以下など)。律法学者やファイサイ派の人々の姿勢を厳しく批判しました。神殿の境内で商売をしている人々を強盗だと言いました(同11章15節以下)。弟子のペトロにはそのうち「わたしを知らないと言うだろう」と言いました(同14章27節以下)。でもその「罪」を悔い改めなさいということはイエスはそこで言っていないと思います。「あなたの罪が」イエスを十字架に追いやったんだなんてこともイエス自身は言っていないんです。「わたしを十字架につけたあいつらを滅ぼせ」なんてことも、もちろん言いません。イエスが言っているのは、「あなたの罪は赦される」(同2章5節)ということだけだと思うんです。今日の聖書箇所は、エリファズという人の言葉です。エリファズは友人のヨブがとても悲惨な、不幸な目に遭っているのを見て、でもそれでもヨブが自分は何も悪いことはしていないと言うのを聞いて、そんなヨブをここで非難しているんです。特に5節から後では、世の中で困っている弱い立場にある、ありとあらゆる人々の苦しみを、すべてヨブのせいにしています。そんなこと知りもしないし、見たこともないのに、ヨブが弱い立場に置かれている人々を今まで苦しめて来たに違いない、だからヨブが今こんな目に遭っているんだって決めつけているんです。でもヨブは、ヨブこそ悪人だと決めつけるエリファズの言葉に屈することは決してありません。

誰も人を罪に定めることはできません。自分の罪は自分で考えて、自分で決めるものです。この世界の中に苦しんでいる人々が大勢いることは確かなことです。大切なものがたくさん失われて行っていることも確かなことです。そのことを、できる限り知る必要があります。でも、そのことに対して自分がどう関わっていて、自分がどうするべきかを決めるのは自分自身です。「わたし」を罪に定めるのは、他者や人の言葉じゃない。それを定めるのは自分と神だけです。イエスが告げた「罪の赦し」、イエスが宣べた「福音」、喜ばしい知らせの中身はそういうことです。主が告げた罪の赦しだけを、わたしたちが宣べ伝えることができますように。そこに示される解放と自由を友と共に分かち合うことができますように。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後はほっとコーヒータイム。DVD『ナザレのイエス』を鑑賞しました。

次週は、教会の暦では世界聖餐日・世界宣教の日です。礼拝の中で聖餐式を行います。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録20章32~38節、牧師からのお話のタイトルは「もはや私の顔を見ることはない」。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習です。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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