2014年10月5日主日礼拝報告

ちょっと違うけどこんな感じの定規でした(株式会社ランドアートのサイトから)

ちょっと違うけどこんな感じの定規でした(株式会社ランドアートのサイトから)

教会の暦では聖霊降臨節第18主日でした。

第1部の礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録20章32~38節を読んで、牧師から「もはや私の顔を見ることはない」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

小学校5~6年生の時のクラス担任の先生が僕は大好きでした。今では考えられないような厳しい面もありました(黒板の定規でお尻をたたくような先生でした)が、野球のことを教えてくれたり、テレビアニメの話をしたり、クラスの一人一人のことをほめてくれる先生でした。僕はその先生とお別れして卒業するのがいやでたまりませんでした。

使徒パウロは、今ミレトスという町を離れてエルサレムへ向かおうとしています。でもパウロはエルサレムへは行きたくないのです。エルサレムにはパウロのことをよく思わない人々も大勢いて、何をされるか分からないからです。でもエルサレムへはどうしても行かなければなりません。パウロももう50代半ば、もう二度とこの辺りに戻ってくることはないでしょう。近くのエフェソという町にはパウロと関係の深い教会があって、そこから何人かの人々がパウロとお別れをするためにやってきました。そこでパウロは最後の話を始めます。ところがこの話の内容、僕はどうも感心しません。「わたしがいなくなったら、きっと変な人たちがやってきて、教会をめちゃめちゃにするだろう。でもわたしは教えることは全部教えたからもう知りません」(25~30節)なんて言ってるんです。こんなことも言ってます。「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」(35節)。それはこういうことです。「わたしはたくさんのことを知っているし、たくさんのものを持っているから、イエスが言ったように、持っているものを皆さんにあげてきましたよ」なんて言っているわけです。どうでしょうか。ちょっと偉そうだと思いませんか。それに、「受けるよりは与える方が幸いである」なんてイエスは本当に言ったんでしょうか。

イエスという人も、お弟子さんたちとの別れを経験しています。イエスのことが嫌いで、イエスを憎んでいる人々が、今にもイエスを捕まえに来る、そんな時にイエスは、ゲツセマネというところに祈りに来て、弟子たちに言いました。「わたしは死にそうなほど悲しい。だからここから離れないで、起きていてください」(マルコ14章34節)。そしてイエスはお弟子さんたちを待たせて神に祈りました。「お父さん、この苦しみをどうか無くしてください。でも、お父さんの思うとおりにしてください」(マルコ14章36節)そう祈ったんです。けれどもイエスはこのすぐ後に捕まえられて、十字架につけられてしまいます。イエスの弟子たちとの別れは、とっても素直な別れだと僕は思います。イエスが言っているのは「とっても悲しい」ってことと、「とっても苦しい」っていうことなんです。

人とお別れするときに、「こんなにたくさんことをしてあげたんだから、だから忘れないでね」なんてことを言うのと、「あなたともう会えなくなるなんて、本当につらくて、悲しいことです」って言うのと、どっちが好きですか。皆さんもぜひ考えてみてください。

(以上、牧師のお話の要約)

第2部の聖餐礼拝のでは聖餐式を行いました。

礼拝後はクリスマス・イブの礼拝で歌う讃美歌の練習をしました。

次週は「主の食卓礼拝」です。礼拝の中で共に食卓を囲みます。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記22章12~17節、牧師からのお話のタイトルは「神はすべてを知っているか」。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習です。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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