2014年10月12日主日礼拝報告

Mさんが献げてくださったお花です

Mさんが献げてくださったお花です

教会の暦では聖霊降臨節第19主日、「主の食卓礼拝」でした。参加者全員で食卓を囲みながらの礼拝を献げました。

第1部の礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記22章12~17節を読んで、牧師から「神はすべてを知っているか」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

わたしたちが生きているこの世界を神が造ったのなら、どうして親しい人が死んでしまったり、天災などによってたくさんの生命が失われたり、大きな事故が起こって多くの人が傷ついたりするんでしょうか。戦争や争い事が起こって多くの人が怪我をしたり亡くなったりするのはどうしてなんでしょうか。神は人間が悲しい思いやつらい思いをするために、この世界を造ったのでしょうか。もし神が、人間よりもはるかに大きな力を持っていて、何でもできる方なら、どうして神はそういう時に人間を助けてくれないんでしょうか。皆さんはそんなことを考えたことはありませんか。

旧約聖書のヨブ記の物語の中では、ヨブという人が、家族を亡くして、酷い病気になって、とても苦しい、しんどい思いをしています。でもヨブには、どうして自分がこんなしんどい思いをしなければならないのか、その理由が分かりません。だからヨブは、「神はわたしから遠く離れていて、自分のことを見ていないんだ」、「わたしのことを知らないんだ」ということを言っていました。でもヨブの友だちのエリファズは、そんなヨブに対して、「そんなことはない。神さまは何でも知っていて、何でもできるんだ。だから、ヨブがしんどいのは、神の言うことを聞かないからなんだ」と、そう言うのです。

エリファズの言うように、神さまは本当に何でも知ってるんでしょうか。それとも苦しんでいるヨブさんが言うように、神は人間のことなんか見ていないんでしょうか。

正直に言うと、それは僕には分かりません。神のことは神にしか分かりません。だからエリファズのように、「神さまは何でも知っているに決まっている」とは僕は言えませんし、誰もそう言うべきではないと思います。でも、確かなことのひとつは、大切な人が死んでしまったり、自分が病気になったり傷ついたりすることは、本当に苦しくてしんどいことだということです。そしてもうひとつは、失われたものはもう二度と戻ってこないということです。だからもし神がなんでも知ってくれている方なら、わたしたちはその苦しい気持ちを、悲しい気持ちを神にぶつけていいはずです。「どうしてこんなに悲しくて、どうしてこんなにしんどいんですか」と神に祈っていいのだと思います。ヨブは、神は自分のことを見ていないと言っています。でも本当は「神さまは見てくれている、知ってくれている」と思ってるんじゃないかと思います。もしそうじゃなかったら、ヨブはもう何にも言わなくなってしまうはずです。神が聴いているんじゃないか、いやきっと聴いているはずだと思うから、ヨブは神にも、友だちにも語り続けるんだと僕は思います。

食卓礼拝の皿うどん。手前のパリパリ麺に、鍋の中の具をかけていただきました。

食卓礼拝の皿うどん。手前のパリパリ麺に、鍋の中の具をかけていただきました。

ただ残念なことに、ヨブのしんどい気持ちは、ヨブさんの友だちに伝わっていません。それと同じように、わたしたちの苦しみや悲しみも、全然人に伝わらないことがあります。そしてそれは、わたしたちにとって、さらにしんどいことです。でもその反対に、わたしたちの苦しみや悲しみが、人に通じることもあります。どうしてそうなるのかはよく分からない、説明は難しいけれども、悲しい気持ちやしんどい気持ちを、一緒に感じ合える仲間に出会うことがあるんです。もしかしたら、本当は分かってもらえているわけでもないのかも知れないけど、でもどこかで何かが通じてるんだなぁって感じることがあると思うんです。そういう仲間との出会いは、もし苦しいことや、悲しいことを知らなかったら、起こらなかったかも知れません。もちろん、そんな仲間と会うためにしんどいことがあったんだってことじゃないと思いますが、しんどいこと悲しいことが無かったら、苦しいことを分かち合うことができる仲間と出会うことは無かったかも知れません。そしてそういう出会いというのは、わたしたちを力づけて新しくしてくれます。

新約聖書のマタイによる福音書にイエスのひとつの言葉が記されています。こんな言葉です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(六章八節)。この言葉の中身は、本当のことだと僕は信じます。僕は今までに、「しんどくて、悲しくて、苦しくて、わたしはもう生きて行くことはできない」と呻く何人かの人との出会いを与えられてきました。そして、全員じゃないけれども、そんな人たちがやがて仲間と出会って、新しくされながら、なお生きて行く様子を見ました。そんな様子を見ていると、「ああ、やっぱり神は見ているんだ。人の苦しみや悲しみを知ってくれているんだなぁ」と僕は思うのです。

(以上、牧師のお話の要約)

すみません。これは似ていますが実物ではありません。撮影するのを忘れました。これは「リンガーハット」さんの皿うどんです。

すみません。これは、似ていますが実物ではありません。撮影するのを忘れました。これは「リンガーハット」さんの皿うどんです。

第2部は「主の食卓礼拝」。今回はメンバーのTさんが中心となって皿うどんを準備してくださいました。みんなでおいしくいただきました。ただ、せっかくのパリパリ麺が、食べるまでに少し時間が経ってしまったせいで、しっとりしてしまいました。メニューによっては礼拝の進め方を少し考えないといけないかも知れません。

礼拝後はクリスマス・イブの礼拝で歌う讃美歌の練習をしました。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第20主日。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録21章7~14節、牧師からのお話のタイトルは「振る舞いで示す」。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習です。どなたでもぜひご参加ください。その後、会堂清掃、定例役員会の予定です。

報告:山田有信(牧師)

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