2014年10月19日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第20主日でした。

第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・マルコによる福音書4章26~29節を読みました。メンバーのOさんから「あきの みのりに かんしゃして」というタイトルでお話をしていただきました。

第2部の礼拝では、新約聖書・使徒言行録21章7~14節を読み、牧師から「振舞で示す」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

マーティン・ルーサー・キング牧師(Wikipediaより拝借)

地中海の北側で宣教活動を続けてきたパウロですが、今日の聖書箇所のところで、その活動にひとつの区切りがつこうとしています。そしてパウロは、キリスト教会発祥の地、ユダヤのエルサレムへ行こうとしています。けれどもパウロはエルサレムへ行きたいわけではありません。その理由をアガボという預言者が予言しています(11節)。パウロがエルサレムへ行くと捕えられてしまうのです。エルサレムはもう目の前です。カイサリアの町の人々はなんとかパウロを思いとどまらせて、エルサレムへは行かせないようにします。でもパウロはどうしてもと、エルサレムへ行こうとします。なぜなのでしょう。

1950年代から60年代に、アメリカの公民権運動を指導したマーティン・ルーサー・キング牧師は、晩年、孤立した状況にあったといいます。キング牧師が貫いた「非暴力主義」のために、暴力に訴えてでも差別を無くそうとする人々からの支持を失いました。また「非暴力」「戦争反対」の姿勢のために、ベトナム戦争一色に染まって行くアメリカ国民からも支持を失います。けれどもキング牧師はその活動を止めようとはしませんでした。

銃で撃たれて亡くなる前の日に、キング牧師は演説を行いました。その演説の一部を引用したいと思います。

「いったい今、わたしに何が起ころうとしているのでしょうか。それはわかりません。わたしたちの行く手が険しいことは事実です。しかしそれはわたしにはもう問題ではありません。なぜならわたしは山の頂に登ってきたからです。本当に心配はしていません。もちろんわたしも、他のどなたとも同じように長生きしたいとは思います。長生きにはそれなりの意味があります。しかしそのことも今、わたしは望んでいません。ただわたしは今神のみ心を行いたいだけです。そして神はわたしに山に登ることを許してくださいました。わたしは周囲を見回し、約束の地を見ました。わたしは皆さんとは一緒にそこには行けないかもしれません。しかし今晩みなさんにぜひ知っていただきたいことがあります。それは私たちは一つの民となって約束の地に到達するのだということです。ですから今晩わたしは幸せです。何事も心配していません。まただれをも恐れてはいません。わたしの目は主がおいでになる栄光を見たのですから」(梶原壽『マーティン・ルーサー・キング』日本キリスト教団出版局より)。

この演説は、旧約聖書に出て来るモーセの姿に自分を重ね合わせたものだといわれます。モーセは、エジプトから脱出したイスラエルの民を、約束に地に導く指導者でした。でもモーセは約束の地を目前に、山の上からそこを眺めながら、でも自分自身が約束の地に入ることはありませんでした。約束の地カナンを目の前に亡くなってしまうのです。キング牧師が、自分自身や、解放運動、おそらく自分の家族の行く末にも不安を感じながら、でもさらに前進しようとしたのはどうしてだったんでしょう。キング牧師は演説の中で「約束の地を見た」、「主がおいでになる栄光を見た」と言っています。いったい何を見たんでしょうか。

キング牧師が見たもの、そしてエルサレムへ行く直前のパウロが見たもの、それは同じものだと僕は思います。キング牧師も使徒パウロも、そこに直接垣間見たのは、自分自身にとって好ましい光景ではなかったはずです。パウロは、預言者アガボのパフォーマンス、つまり帯で手足を縛られるという振る舞いを見て、エルサレムへ行ったら、自分がひどい目に遭うに違いないと確信したはずです。キング牧師も、最後の演説で触れているように、自分の身に何かが起こることを予感していたのでしょう。だから、二人とも自分に起こる身の危険をはっきりとイメージとして捉えていたんだと僕は思います。けれどもそのイメージは、二人にただ怖れだけを感じさせたのではありません。そのイメージ向こうに、もっとはっきりとした光景が、ビジョンが、約束の地が、二人の目には見えていたはずだと僕は思います。

使徒パウロは、当時のユダヤ人たちが固執する「律法」と呼ばれる決まり事を越えて、ユダヤ人も、律法を守らないユダヤ人以外の異邦人も、共に生きる世界をしっかりと見据えていたはずです。パウロがエルサレムで捕えられるのは、パウロが宣教活動をしてきたギリシャ地方、アジア地方の人々に、パウロが律法を守る必要はないと伝えていたせいです。律法に固執する、エルサレムのユダヤ人やキリスト者にとって、それは許せることではなかったのです。

キング牧師が、身の危険のイメージの先に見据えていたのは、いわゆる「黒人」も「白人」も共に一つの家族として、兄弟姉妹として生きるイメージだったと思います。けれども、差別や戦争に囚われていた人々には、それはあり得ないことだったのでしょう。

そんな二人にとって、人が共に生きることができない現実の世界は、危険と隣り合わせでいる他ない世界です。律法に固執したり、差別と戦争の無い世界を恐れたりする人々の中で、共に生きる世界を目指すことは危険を伴うのです。けれどもそのことは二人にとってはむしろ、自分たちが主イエスの後を追って、新し世界に向かって進んでいるということを確信させるものであったのかも知れません。

キング牧師も使徒パウロも、そしてイエスも、勇敢だったから苦難に立ち向かったということではないと思います。試練によって鍛えられるとかそういうことでもないと思います。そうではなくて、ただその先に、人と人が共に生きる世界をしっかりと見据えていたから、だからその前にたちはだかる恐れを突き抜けて、先へと進もうとしたんだと僕は思います。わたしたちも、山の頂から垣間見える、あるいは人の振る舞いの中に垣間見える、恐れの向こうに見える、人が共に生きる世界、その光景をしっかり見据えたいと思います。主よどうか、わたしたちに先立って進んでください。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後はクリスマス・イブの礼拝で歌う讃美歌の練習をしました。そして練習の後に、会堂清掃、定例役員会を行いました。

報告:山田有信(牧師)

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