教会の暦では降誕前第9主日でした。もうじきクリスマスですね。
第1部の子供の礼拝の中では、新約聖書・マタイによる福音書7章7~8節を読んで、メンバーのKさんが「かぜのでんわ」という絵本を朗読してくださいました。オフラインの電話でのやりとりが人を力づけます。神との呼応・「祈り」にも通じることでしょうか。
第2部の礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記22章18~30節を読んで、牧師から「立ち上がれ」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
最近、買い物のスタイルはずいぶん変わりました。パソコンやスマートフォン(以下スマホ)などを使えば、大型家電から日常の細々したものまで、ありとあらゆるものが、2~3回くらいのクリック(またはタッチ)によって買うことができます。後は、翌日か、翌々日くらいに商品が届くのを待つばかり。僕もよく利用します。
特に有名なネット販売店がAmazonです。Amazonを利用すれば、手軽に安価に素早く、あらゆる商品を手に入れることができます。けれどもそうした便利さ安さの裏側にはカラクリがあります。Amazonで働く人々の多くが、安い賃金で過酷な労働を強いられているのです。Amazonの倉庫兼配送センターでは、あらゆる商品にタグがつけられて、分類されることなく棚に並んでいます。発注があるとコンピュータが商品の場所を指示するので、人間が早足でその商品を取りに行って配送に回します。一人の人が一度の勤務で移動する距離は20キロほどになるそうです。倉庫の環境は過酷です。でも体調が悪くても働き続けなければなりません。しかも、そういう労働者たちは、じきに仕事を失いそうです。Amazonはセンターのロボット化を積極的に進めていて、それが実現すれば多くの労働者は切り捨てられる運命にあります。
http://www.diplo.jp/articles13/1311amazon.html
誰かを犠牲にして、誰かが便利さや安さを享受するというのは、やはり良くないことだと思います。人が人を貪ることですから、「悪」と言ってもよいでしょう。でも「悪」というのはとても分かり難いものなのかも知れません。ネット販売を利用していても、その背後に安くこき使われている労働者がいることは見えません。消費者がお金を払って商品を買うのは当たり前の事で、それ自体が「悪」とは言えません。ですから、そのことを敢えて知ろうとしない限り分かることではないのです。
今日の聖書箇所は、友人のヨブに向けられたエリファズという人の言葉です。ヨブは、神によって、非常に厳しい苦難に見舞われています。何の利益もなしに、人が神を信じることがあり得るだろうかという問いかけを、神がサタンから受けたことによって、ヨブが試されることになったわけです。そのため、ヨブは財産を失い、家族を失い、自分の皮膚まで病によって破られています。エリファズという友人は、そんなヨブを訪ねて来て、最初はヨブを憐れんでいましたが、ここではもうヨブを悪人だと決めつけています。ヨブは苦難に見舞われているのは、神に背いた結果だとエリファズは思っているのです。
エリファズはそのことを確信しているようです。以前ヨブが、「悪事を働いても裕福に暮らす人々がいる」という指摘をしたことを利用して、それならヨブも、どこかに財産を隠し持っているのではないかと疑っているようです。24節は、その隠し持っている金を手離しなさいということです。エリファズの姿勢は、神は神に服従する者を優遇し、神の背くものを罰して苦しめるという、自分が信じている信仰だけを頑なに信じて、事実を見ようとはしないものです。だからエリファズがここで言っていることは間違いばかりです。
でも今日の箇所にはひとつだけ、彼の言うとおりになることがあります。30節の言葉です。ここでエリファズは、ヨブが悔い改めて神に従うようになれば、他の罪人を救うことができると言うのですが、ヨブ記の最後でその通りになります。「主は…エリファズに仰せになった。『わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかった』」(ヨブ記42章7節)。エリファズたち友人は正しく語らなかったので、ヨブが神に執り成すことによって、神の赦しを得ることになるのです(42章)。ここでエリファズ自身が言っていることが、皮肉にも自分自身の身に起こるのです。友人たちの罪とはなんでしょうか。それは本当のことを知ろうとしなかったことだと僕は思います。
一方ヨブの姿勢はどうでしょうか。ヨブはここまでずっと神に問いかけて来ています。自分がなぜ苦しまなければならないのか、本当のことを知ろうとしているのです。ヨブのすべてが正しいわけではないと思いますが、このヨブの姿勢を神は「正しい」(同42章7節)としているのではないでしょうか。
ヨブ記という書物は、わたしたち一人一人が、自分自身で事実を、真実を知ろうとする必要があるということを、わたしたちに語っている書物だと思います。自分勝手な信仰に閉じこもって、その中でしか考えないのではなくて、自分で知り、自分で考え、自分で行動することを、神は求めているということを語ろうとしているんです。
ヨブ記が示すその姿勢は、イエスに通じるものです。イエスもまた、当時、当たり前のことになっていて、誰もそこから出ようとしなかった、「律法」と呼ばれる決まり事に囚われることなく、目の前で苦しんでいる人の真実に目を向けました。
真実に目を向けることは容易いことではありません。慣れ親しんだ環境や、便利さや、快適さや、安さが、わたしたちの目を事実から逸らせてしまいます。本当のところはどうなのか、わたしたちはヨブのように、自分自身で真実を知ろうとする姿勢を無くすことなく、神に問い続けたいと思います。そのために必要な知恵と力が与えられますように。
(以上、牧師のお話の要約)
礼拝後には同志社大学グリークラブからのPRがありました。その後、クリスマス・イブの礼拝で歌う讃美歌の練習、ほっとコーヒータイムではDVD「ナザレのイエス」を鑑賞しました。
次週は、教会の暦では降誕前第8主日。永眠者記念主日礼拝(毎年4月と11月の二度行っています)です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録21章18~26節、牧師からのお話のタイトルは「旧きをたずねて新しきを得る」。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習。午後1時から墓前礼拝(服部霊園教会墓地)、その後、野外食事会の予定です。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)