2014年11月2日主日礼拝報告

教会の暦では聖徒の日・降誕前第8主日、大阪淡路教会では永眠者記念主日礼拝でした。大阪淡路教会永眠者名簿に記載されている111名の永眠者のことを心に留めて、共に礼拝を献げました。

第1部の子供の礼拝では、旧約聖書・創世記25章27~34節を読んで、牧師から「つよくなりたい」というタイトルでお話をしました。人はどうして力を求めるのでしょう。イサクの子供、エサウとヤコブの兄弟は、生れる前から争うことを運命づけられています。でも赤ちゃんは、人と争い力を手に入れなくても、自分で育って行く力をすでに持っていると思います。イエス・キリストは力を手に入れることよりも、むしろ弱くされることによって、弱くされていた人々に寄り添いました。

第2部の礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録21章18~26節を読んで、牧師から「旧きをたずねて新しきを得る」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

宮沢賢治(Wikipediaから拝借)

宮沢賢治(Wikipediaから拝借)

「僕はきっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます」。

これは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中で、主人公のジョバンニが銀河鉄道を降りた後、ブルカニロ博士という人物と話して、決意を固めたように語る言葉です。

母は病弱、父は出稼ぎに行って音信不通(近隣では犯罪者呼ばわりさえされている)、そんなジョバンニは、学校ではクラスメイトにからかわれ、いじめに遭っています。かつては仲良しだったカムパネルラもいじめに加わっています。祭りの夜、ジョバンニはいつのまにか、カムパネルラと一緒に、ある列車に乗り込んでいました。それが銀河鉄道です。そして二人はその列車の中で、いろんな人々と出会います。でも、やがて人々はその列車を降りて行きます。最後にはカムパネルラもいなくなってしまいます。驚いたジョバンニは列車の窓から身を乗り出して泣き叫びますが、その時にある声を聴きます。宮沢賢治は「セロのような声」と書いています。その声はジョバンニに言いました。「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない」。そしてもうひとりブルカニロ博士という謎の人物に出会って、もう一度、「まっすぐに進んで行くがいい」という言葉を聴いて、ジョバンニは自分の切符を確かめて走り出します。それは、銀河鉄道に乗って、どこへでも行くことができる切符です。気が付くとジョバンニは丘の上で目覚めます。そして知るのです。カムパネルラが川で溺れて死んでしまったことを。カンパネルラは、ザネリという、ジョバンニを一番からかっていたクラスメイトを助けるようにして、自分は溺れてしまったのです。

ジョバンニは列車の中で、死者と交流します。その交流が、現実を「まっすぐに」生きる力をジョバンニに与えます。もう実際にその人を目の前にして、触れ合ったり、言葉を交わしたりすることはなくても、その人が確かにそこにいて、声が聴こえ、ぬくもりを感じるという経験を人はすることがあります。誰もが「銀河鉄道」に乗ることができるのです。

使徒パウロは人々の反対を押し切ってエルサレムにたどりつきました。エルサレムに行けば、どんな目に遭うか分かりません。それなのになぜパウロはエルサレムにこだわるのでしょう。ユダヤ以外の地(異邦)での宣教活動の成果を報告するためでしょうか。アジア地方、ギリシャ地方で集めた献金を届けるためでしょうか。それだけではないと思います。パウロは、エルサレムで十字架につけられ、エルサレムで復活したイエスの姿を追い求めていたのではないでしょうか。

もう会い見えることのない相手、親しかった人、愛し合った人、すれ違っただけだった人、どんな人とも、わたしたちがその人の生き様を想い起して、その人の気持ちに寄り添うことができる時、そこに力が生み出されます。死というものは、誰彼なく飲み込んで行きます。その前では誰もがそれに抗うことができずに、なされるがままに、飲み込まれてしまいます。死の前では、誰もが、この世で手に入れたすべての力を失って、あるがままの自分になって、たたずむ他ありません。でも、だからこそ、わたしたちがそこに想いを向ける時に、誰もがあるがままのその相手と、あるがままの自分とで、何にも邪魔されることなく、深い交流を交わすことが可能になるのではないでしょうか。そして、「あの時、あの人は何を感じていただろうか」、「あの時、あの人は何を思っただろうか」、その問いが、わたしたちに新しい何かをもたらすのです。

「僕はきっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます」。「まっすぐに」「ほんとうの幸福を求め」ること、それは、人が死を目の前にしたときのように、この世界で身に着けたすべての力、すべての鎧を捨てて、身一つで、自分らしさという切符以外には何も持たずに、ただ自分がほんとうに求めていることに、まっすぐ進んで行く、そういうことではないでしょうか。使徒パウロは、きっとイエスのまっすぐさ、イエスの求めた人の本当の幸せに惹かれて、危険に満ちたエルサレムに、まっすぐに向かったんじゃないかと僕は思います。「わたし」たちが弱さによって力を失う時こそ、主よどうか、心と心を結び合わせて、そこに新しくまっすぐな力を与えてください。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後には、クリスマスの讃美歌練習、そして午後1:00からは服部霊園の教会墓地で墓前礼拝を行いました。墓前礼拝の後は、野外食事会の予定でしたが、不安定な天候だったので、教会に戻って食事会を行いました。皆様、食事の持ち寄りありがとうございました。ごちそうさまでした。

次週は、教会の暦では降誕前第7主日。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記23章1~9節、牧師からのお話のタイトルは「神の鼓動」です。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習の予定です。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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