2014年11月9日主日礼拝報告

メンバーのMさんが献げてくださったお花

メンバーのMさんが献げてくださったお花

教会の暦では降誕前第7主日でした。

第1部の子供の礼拝では、新約聖書・マルコによる福音書6章1~4節を読んで、メンバーのOさんが「ほんとうのこころ」というタイトルでお話をしてくださいました。アニメ番組「妖怪ウォッチ」の”ジバニャン”と”エミちゃん”のすれ違いを例に引かれました。何かに囚われてしまって、他者の本当の思いをくみ取れないことがありますね。イエスの故郷がイエスを受け入れなかったのも、人々が何かに囚われていたからでしょうね。

第2部の礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記23章1~9節を読んで、牧師から「神の鼓動」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

父が亡くなって8年になります。僕は父母と妹二人の五人家族の中で育ちました。けれども僕の家族は、僕が家を出てからは、みんなが揃うということがあまりありませんでした(祖母の葬儀、兄妹の結婚、一度きりの家族旅行くらい)。それで僕は、家族から離れて暮らすことに慣れっこになっているせいか、父が亡くなってからも、父の不在を実感することが少ないのです。でも、昨年久しぶりの家族旅行をしたときに、父の葬儀以来久しぶりに、母と兄妹三人が揃ってみて、僕は改めて父の不在を実感しました。かつて、レジャーや旅行の際には、あっちこっち精力的に動き回って、山菜を摘んだり、写真を撮ったり、落ち着きのなかった父が、その旅行には居なかったからです。

その旅行中、みんなである農園を訪ねました。そしてそこで一人の少年を見かけました。その少年は、藪や茂みのようなところに入って行っては一生懸命に写真を撮ったり、一緒に来ている母親の心配をよそに、遠くの方まで一人で行ってしまったりしていました。面白い少年だなぁと思って見ているときに、僕はふと母と目が合いました。母は微笑んでいました。たぶん母も、その少年を見て、父のことを思い出していたんじゃないでしょうか。

誰かに会いたいと思う時、そう感じる時というのは、やはりその人の不在、そこに居ないということを実感する時だと思います。先ほど読んでいただいた聖書箇所の中では、ヨブという人が神に会いたいと心から願っています(三節)。でも二節にはこうあります。「今日も、わたしは苦しみ嘆き/呻きのために、わたしの手は重い」(新共同訳)。家族、財産、健康を失った悲しみのために、ヨブはいま嘆き悲しんでいるわけです。そしてさらに、自分がなぜそんな目に遭わなければならないのか、それを神に問いかけても答えがないという苦しみもあります。今ほど、神がどこにいるのか、どうすれば神に会えるのか、それを知りたい時はない、そういう強烈な寂しさをヨブは今感じているということなんじゃないでしょうか。

ヨブはこれまで神の存在自体を疑ったことはありません。自分が生まれなければよかったと言っても、神の造った世界を否定するようなことを言っても、神など居ないと言ったことはありません。ただ、なぜ自分がこんな苦しみを味わわなくてはならないのか、その理由を神にずっと問いかけて来ているんです。そしてここまで、そして今日の箇所でもまだ、神は何も答えない、そんな状況にヨブは置かれているわけです。ですから、ヨブは絶えず、神をそこに感じて、そこに居る神に対して問いかけて続けて来ているわけです。そして今日の箇所では、ヨブにある変化を感じることができます。神に見放されたと思って、自分の生まれた日を呪い、友人たちに悪人呼ばわりされて、それに強く抗議して来たヨブが、今日の箇所では、神に会いたいと強く願っているんです。問いかけても、問いかけても、答えない神に対して寂しさを募らせるヨブの気持ちが、でもやっぱり神に近づこうとしている、そういうことなんじゃないかと僕は思います。

人が寂しさを感じる時、それはそこに居るべき相手が居ないことを強く感じる時です。ヨブは、神に対して寂しさを感じ、それと同時に神に会いたいという気持ちを募らせます。そしてそれは、実は最も神が近い時なのかも知れません。イエスが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書一五章三四節)と叫んだとき、イエスは神から最も遠くにいたのかも知れません。また、その時ほど、イエスが神の存在を感じることができなかった時はなかったかも知れません。でも、イエスが「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、問いかけるときにこそ、イエスの眼差しの先には、イエスの叫びを聴いている神の姿があったのではなかったでしょうか。

去年の家族旅行で、農園の中を動き回る少年の姿に父の面影を見た時、僕は父ともっと話をしておけばよかった、もっと会っておけばよかった、もっと話したいなぁと思いました。それは、久しぶりに家族が揃って、父が居ないということを実感して、寂しく感じたことが、そう思わせただけのことかも知れません。でも僕は、農園の中を、一緒に来た自分の家族そっちのけで動き回る少年の姿を見ていて、そして母とふと目が合った時に、不思議に暖かい気持ちがしました。父がここに生きているなぁと感じました。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後には、クリスマスの讃美歌練習を行いました。

次週は、教会の暦では降誕前第6主日。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録21章27~36節、牧師からのお話のタイトルは「あいつさえいなければ」です。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習をします。どなたでもぜひご参加ください。その後、会堂清掃、定例役員会の予定です。

報告:山田有信(牧師)

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