教会の暦では降誕前第6主日でした。
第1部の子供の礼拝では、ルカによる福音書・1章39~45節を読んで、メンバーのOさんが「クリスマスがやってくる」というタイトルでお話をしてくださいました。ルカの記すイエスの誕生物語が語る状況を考えると、イエスを身ごもったマリアは大きな不安に苛まれていると考えることができるでしょう。だから、同時期に身ごもった親類のエリサベトの存在は、マリアにとって確かに大きな支えになるはずです。
第2部の礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録21章27~36節を読んで、牧師から「あいつさえいなければ」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
2008年6月の「秋葉原事件」を起こした加藤智大という青年は、事件の何年か前からネット上のいくつかの「掲示板」に頻繁に書き込みをしていました。彼にとって「掲示板」はその頃のたった一つの居場所だったようです。ところがあることをきっかけに、その「掲示板」で、彼は孤立してしまうことになります。事件の三日前、彼は「掲示板」に「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし。難しいね。『誰でもよかった』。なんかわかる気がする」という書き込みをしています。「誰でもよかった」というのは別の事件の犯人の言葉なのですが、それを彼は理解できると書いたんです。そして彼も実際に、不特定多数の人を傷つけ、生命を奪いました。でも、自分が殺す相手でさえ、誰でもいいというのは、もう本当に孤独だということなんじゃないでしょうか。彼には憎むべき特定の相手さえいなかったんです。
加藤智大はどうしてあんな犯行に及んだんでしょうか。分かり易い、簡単な答えはないと思います。『秋葉原事件―加藤智大の軌跡』(中島岳志)という本を読みました。それによって、加藤智大の幼少期から事件までをたどってみて、とても他人事とは思えませんでした。自分や自分のまわりの人に同様のことが起こっても不思議はないと感じました。加藤智大には意外にも多くの友人がいました。信頼し慕った相手もいました。職を転々としましたが、それぞれの職場には仲間ができました。けれども、事件の前には、それらの関係はすべて断たれていました。彼は「掲示板」の仲間に思知らせるために事件を起こしたと言っているそうですが、「掲示板」の相手は特定できません。彼を虐待していた親を憎み切れず、親しい相手に頼ることもできず、そして今自分を苦しめる相手を特定することもできない。そんな状況が、不特定多数を相手にした犯行に加藤智大を向かわせたのかもしれません。けれども、なぜ彼が犯行に及んだのか、それを考えるためには、一人一人が彼の人生をたどる必要があると思います。
使徒言行録によると、エルサレムを訪れた使徒パウロは民衆によって捕えられ殺されそうになります。なぜ民衆がパウロを殺そうとしたのかというと、パウロが律法(ユダヤ教の決まりごと)をおろそかにしたからです。パウロは異邦人(ユダヤ人以外の人)には律法をあまり強制はしなかったのです。エルサレムの人々にはそれが許せませんでした。また、パウロがギリシャ人をエルサレム神殿の境内に連れて行ったことも、神殿を汚すこととして反感を買いました。けれども、律法を厳格に守らなければいけないということや、ユダヤ人以外の人は神殿を汚すといったことは本当のことなんでしょうか。実際にはそこには何もありません。そこにあるのは、ユダヤ人の多くが、律法にすがって生きる以外の方法を知らないという現実があるだけです。彼らは律法に頼る以外に、頼るものが何もないんです。人を信じることはできず、律法に頼るほかありません。
秋葉原事件は、加藤智大という一人の人間が、不特定多数の人を傷つけ殺すという事件です。エルサレムで起こっているのは、不特定多数の民衆がパウロという一人の人間を殺そうとする事件です。ですから、このふたつの事件はまったく正反対です。でも僕は共通点があると思います。それはどちらも、頼る相手、頼るべき何かを失なって、そうさせる何かを憎んで、そのことを何とかしようとして、相手を殺そうとしているということです。もちろん、加藤智大の苦しみと、エルサレムの民衆一人一人の苦しみの大きさはまったく違うでしょう。でも、他に頼るもののない者が、それを失わせようとする力から、必死になって自分を守ろうとしている、そういう意味では、秋葉原事件も、エルサレムで起こっていることも共通していると僕は思います。寄る辺の無い状況に追い込まれているのが、特定の独りなのか、不特定多数なのかという違いがあるだけです。
イエス・キリストは、律法に頼ることはしませんでした。神に選ばれたユダヤ人であるということに頼ったり、律法を守ることで罪から逃れて、自分が正しい人でいられるという教えに囚われることはありません。そうではなくて、そんな決まりごとにがんじがらめにされて、律法を守ることのできない人々を排除して苦しめていた社会の中で、むしろ律法を守ることのできない人々の方に寄り添って行きました。イエスはユダヤ人としての誇りや、律法に頼ることを捨てて、何者でもない、生まれたままの人間同士の間に、信頼を生み出すことだけを求めたんだと思います。
そんなイエスを救い主と信じる教会は、何か決まり事を守るとか、人の言うことをきくとか、誰かの期待通りに振る舞えるとか、何かができるとか、そういう基準で成り立つ集団ではなくて、他の何よりも、生まれたままの人を受け入れて、ただの一人の人間と、ただの一人の人間との間に信頼を生み出す、そういう場なんだと僕は思います。教会が信頼を生み出す場であり続けることができますように。
(以上、牧師のお話の要約)
礼拝後には、クリスマスの讃美歌練習、会堂清掃、定例役員会を行いました。皆様のご協力に感謝します。
次週は、教会の暦では降誕前第5主日。収穫感謝日・謝恩日・勤労感謝の日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記23章10~17節、牧師からのお話のタイトルは「神との余白」です。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習をします。そしてその後、クリスマス・ツリーの飾りつけなど、クリスマスの準備をします。
報告:山田有信(牧師)