2014年11月23日主日礼拝報告

メンバーのMさんが献げてくださったお花

メンバーのMさんが献げてくださったお花

教会の暦では、収穫感謝日・謝恩日でした。

第1部の子供の礼拝では、創世記27章22~24節を読んで、牧師から「ヤコブ、おとうさんをだます」というタイトルでお話をしました。ヤコブは母リベカと一緒に、父のイサクをだまして、兄エサウを出し抜いて「祝福」を手に入れました。勝ち組ということでしょうか。生きていれば、競争しなければならないこともあるかも知れません。でも考えて欲しいのです。その争いと、争いに勝つことは本当に必要なことなんでしょうか。

第2部の礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記23章10~17節を読んで、牧師から「神との余白」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

今日の聖書箇所では、まず、神は唯一絶対の存在で人はその神に絶対服従すべきだと、ヨブが考えているように描かれています(10~14節)。そして自分は神の定めたことから外れたことはないとヨブは自負しています。けれども、その自信はすぐに恐れに変わります(15~16節)。神が絶対的な存在で、神の定めたことを誰も変えることができないとしたら、その定めの内に自分が入っているうちは良いのですが、そこから外れたとなると、もう自分は滅びるほかありません。ヨブの今の苦しみが、神の定めから外れた故の罰だとしたら、もう滅びるだけです。ヨブはそれを恐れています。

絶対的な存在である神への服従の自信・神に対する信頼と、神の定めから外れ滅びるほかないという恐れの間でヨブは揺れ動いています。それがよく表現されているのが17節です。「わたしは暗黒を目の前にし/目の前には闇が立ちこめているのに/なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか」。この「なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか」という言葉は、①「もう滅ぼし尽くされても仕方がないのに」という諦めを表す言葉として、あるいは②「神が自分を滅ぼすはずがない」というヨブの自信を表す言葉としても理解できます。ヨブはこの諦めと自信の間で揺れているのです。

ところで神は本当に絶対的な存在で、永遠不変なのでしょうか。新約聖書の福音書は、「救い主」イエス・キリストについて、とても興味深い話を記しています(マルコによる福音書7章)。ガリラヤ地方の北の方をイエスが旅している時に、イエスのことを聞きつけたある女性が、イエスを訪ねてきます。女性の娘が、「汚れた霊に取りつかれ」ていて、イエスに娘を助けて欲しかったからです。女性は隠れていたイエスを探し当てて、娘から悪霊を追い出して欲しいと頼みます。ところがイエスは、まずそれを断るんですね。イエスは女性に向かってこう言います。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」(マルコ7章27節)。この言葉はどういう意味でしょうか。十分に食べさせなければならない「子供たち」というのは、神の民イスラエル、ユダヤ人のことだと考えられています。そして「子犬」というのは、ユダヤ人ではない人々のことです。イエスを訪ねて来た女性は、シリア・フェニキアの生まれです。だからイエスは、「ユダヤ人なら助けるけど、ユダヤ人ではない、シリア・フェニキアの女性やその娘は助けないよ」「外国人にやるパンはないよ」と言ったんです。これがキリストの言うことでしょうか。明らかに差別的です。でもこの女性はイエスにそんなことを言われても諦めません。イエスに向かってこう言います。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」(同28節)。外国人だって、ユダヤ人のパン屑を食べるんだって言うんです。神からの恵みはユダヤ人だけのものではないはずだということです。するとイエスは前言を翻して、女性の娘を癒すのです。

この話は、イエスが過ちを犯すことのない絶対的に正しい救い主だと思いたい人々には都合の悪い話です。でも、僕はなんとなくホッとするところもあります。イエスでさえ、間違いを犯すのかなぁと思うと、安心するんです。そしてもう一つ、この話が示していることがあります。それは、イエスが女性の言葉に心を動かされて、自分の行動を改める、そんな救い主だというところです。そこに僕は喜びを感じます。イエスは、唯一絶対、永遠不変といった、動くことのない、揺れることのない、人がただ従うべき主人じゃなくて、人の言葉に心を動かされる、生きた救い主だということです。少なくとも、マルコによる福音書の著者マルコは、そういうイエスを描き出しているんです。

人は絶対的な力に、ただ従って生きるロボットではありません。わたしたちは一人一人が違った個性、自分らしさというものを持っています。わたしたちが信じる神は、神自身が自分を変えて、過ちを認めて、低くなってでも、わたしたちそれぞれの自分らしさを生かそうとする神です。ヨブは苦しみの中にあって、自分が神に滅ぼされるのではないかと恐れつつも、たとえそうであっても、神はその定めを変えてでも、自分に語り掛けてくれる、そういう神であるに違いないという思いも持っているんだと思います。ヨブの示すその希望の中をわたしたちも共に生きたいと思います。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後には、クリスマスの讃美歌練習、そしてクリスマスの準備をしました。皆様のご協力に感謝します。

次週は、教会の暦ではアドベント第1主日です。聖書箇所は新約聖書・マルコによる福音書1章16~20節、牧師からのお話のタイトルは「父の家を離れて」です。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習をします。そしてその後の「ほっとコーヒータイム」ではDVD「ナザレのイエス」を鑑賞します(約30分)。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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