2014年11月30日主日礼拝報告

教会の暦では、アドベント(待降節)第1主日でした。もうすぐクリスマスです。

第1部の子供の礼拝では、旧約聖書・詩編71編4~9節を読んで、メンバーのIさんが、宮沢賢治の詩「永訣の朝」を朗読してくださいました。

第2部の礼拝の中では、新約聖書・マルコによる福音書1章16~20節を読んで、牧師から「父の家を離れて」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

たとえばルカによる福音書では、弟子たちを招く前に、イエスは一種の奇跡を起こしています。夜通し漁をしても、一匹も魚が獲れなかったのに、イエスの指示通りに網を降ろしてみるとたくさんの魚が獲れたのです。弟子たちはそんなイエスについて行くわけです。けれども、マルコによる福音書では事情はだいぶ違っています。マルコによると、イエスの弟子になる人たちは、イエスのことなど、ほとんど知りもしないのに、イエスに招かれるとついて行きます。マルコは、イエスに招かれたら誰でもすぐについて行くべきだとでも言いたいのでしょうか。そうではないと思います。シモン(ペトロ)を初めとする人々が、なぜイエスについて行ったのか、マルコには分からなかったのでしょう。だから何も書いていないのです。今日ここに集っている皆さんの多くは「クリスチャン」です。でも自分がどうして「クリスチャン」になったのか、分かり易く説明できる人はあまりいないんじゃないでしょうか。そういうものなんだと僕は思います。心の中では、この弟子たちみたいに、すべてを捨ててイエスについて行きたいという願いは持っているかも知れません。でもなかなかそうではできないし、でもやっぱりイエスという人には何かがあって、魅かれる、でもだけど…、それがわたしたちの現実なんだと思うんです。

ハインリヒ・ホフマン作「キリストと金持ちの青年貴族」

ハインリヒ・ホフマン作「キリストと金持ちの青年貴族」

なぜわたしたちは、イエスの弟子のように、すべてを捨ててイエスについて行くことができないんでしょうか。イエスについて行くために、シモンたちは漁師の仕事と家族を捨てました。それがわたしたちにはできません。マルコによる福音書の10章には「金持ちの男」という見出しがついている話があります。「永遠の生命」を受け継ぐにはどうすればよいかと問う男に、イエスは「物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言います。すると男は気を落として悲しみながら去って行きます。この男はたくさんの財産を持っていて、売り払うことができなったのです。この男とシモンたちはとても対照的です。でも、クリスチャンたる者は、金持ちの男のようにではなく、シモンたちのようにすべきだと言ってもあまり意味はないと思います。わたしたちの現実は、弟子たちのような面と、金持ちの男の面を両方持っていて、心のどこかで弟子たちみたいにイエスに全面的について生きて行きたいと願う一方で、持っているものを失うことを恐れて、イエスについて行くことができないということなんじゃないでしょうか。

シモンたちはついて行ったのに、金持ちの男がついて行けなかったのはなぜなんでしょうか。シモンたちは網と舟くらいしか持っていなかったけれども、男はたくさんのものを持っていたという違いが大きように表面的には思えます。でも、財産の量が問題なのではないと僕は思います。大きな違いは、シモンたちが父親を捨てることができたのに、金持ちの男にはそれができなかったというところにあるのではないでしょうか。金持ちの男の話に父親は出て来ません。でも男が持つたくさんの財産が、彼の父親を表わしています。弟子たちは父親を捨てることができましたが、金持ちの男は財産の背後にいる父親を捨てることができなかったんだと思います。

心理学者の河合隼雄さんは、著書『家族関係を考える』の中で、人の無意識の世界には「父なるものの元型」があると言っています。「父なるもの」というのは、子供が母親から離れて自立をするときに、それを支える規律を与えるものだそうです。そして河合さんは、「父なるもの」を「土なる父」と「天なる父」に分けて考えます。ただ父親の真似をしていれば、多くの人がそこそこ生きて行くことはできるものです。それが「土なる父」です。ところが人は、そういう「土なる父」とは違う、父親を超える何かを求める気持ちも持っています。それが「天なる父」です。

シモンたち、金持ちの男にとってイエスが「天なる父」です。そして、シモンたちには父親や漁師の仕事が「土なる父」で、金持ちの男にとっては多くの財産が「土なる父」ということになるでしょう。シモンたちは「土なる父」を捨てて「天なる父」に従ったけれども、金持ちの男にはできなかったのです。わたしたちもこの二人の父を持っていて、その間で揺れながら生きています。何かわたしたちを惹きつける魅力的な生き方があります。でもそれがどんなものなのかよく分かりません。衝動的にそれに飛びついて、だまされて、大失敗することもあるかも知れません。それくらいなら、おとなしく今まで通りの生活をしていればよかったということになりかねません。でも一方、ただ安全に、周りの人の言うとおりにして、日々、昨日と同じ今日を生きていればそれでいいとも思えません。金持ちの男のように財産と言う「土なる父」に取り込まれて、自分が目指したいと願う生き方を捨ててしまうことになるかも知れません。

ところでイエスは人をどこへ招こうとしているんでしょう。イエスは漁師をしていた弟子たちを招くときにこう言っています。「人間をとる漁師にしよう」(一七節)。これは、あなたたちがただ家族と共に漁師を生業として生きていくだけじゃなくて、すべての人と共に生きる生き方を目指そうというイエスの言葉だと僕は思いました。金持ちの男に対して言った「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」(一〇章二一節)という言葉も同じだと思います。自分のために、自分の家族のためだけに生きるのではなくて、すべての人のために、すべての人と共に生きようとイエスは呼びかけているんです。この「天なる父」の声と、そんなことよりも自分の生活が第一だ、それをきちんとすることが先だという「土なる父」の声、その両方の声を聴きながら、わたしたちは生きる他ないのかも知れません。どちらにも良いところと悪いところがあると思います。自分が自分として生きるために、何を捨てて、何について行くべきなのか、わたしたちはその声の狭間で生きて行きます。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後には、クリスマスの讃美歌練習をしました。そろそろ仕上げですね。その後、「ほっとコーヒータイム」でDVDを鑑賞の予定でしたが、都合により中止しました。

次週は、教会の暦ではアドベント第2主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録21章37~22障5節、牧師からのお話のタイトルは「悔恨の輝き」です。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習をします。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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