2014年12月7日主日礼拝報告

教会の暦では、アドベント(待降節)第2主日でした。

第1部の子供の礼拝では、旧約聖書・創世記29章16~20節を読んで、牧師から「ヤコブのけっこん」というタイトルでお話をしました。ヤコブはお父さんのイサクをだまして祝福を手に入れましたが、今度はおじさんのラバンにだまされて、愛してもいないレアと結婚させられてしまいます。人はどうして嘘をつくのでしょう。誰もが嘘をつきます。そんなわたしたちがどうやって一緒に生きて行くのか考えさせられます。

第2部の礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録21章37~22章5節を読んで、牧師から「悔恨の輝き」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

黄金色に色づいた麦畑・麦秋の播磨平野 http://kobe.travel.coocan.jp/tatsuno/ibogawa_mugi.htm から

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人はお腹が空いたら何でもします。飢えないために、ありとあらゆることを考えます。それが人間の本性です。福音書を記したマルコは、イエスの弟子たちが空腹に耐えかねて、麦畑の麦の穂を摘んで食べたという話を記しています(マルコによる福音書2章23節以下)。ところがある人々が、そんな弟子たちのことを知ってイエスに文句を言い始めます。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(同24節)とイエスに言ったんです。するとイエスは答えました。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」(同25節)。イエスが言ったのは、旧約聖書のサムエル記の上巻21章に記されていることです。王様のサウルに疎まれ、逃亡生活を送っていたダビデが、空腹に耐えかねて、ある祭司に食べ物をくれないかと言うと、その祭司が神に献げるために供えてあったパンをくれました。丁度、そのパンを新しい焼き立てのパンと取り替えるところだったのです。そしてさらにイエスはこう言います。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコによる福音書二章二七節)。イエスが言っているのはこういうことです。人が空腹に耐えかねたら、律法に定められていることは必ずしも重要ではない、あのダビデ王でさえ、本来神のものであるはずのパンを食べたじゃないかと言うんです。

でも人はまた、そういう本質・本性のようなものを隠して生きようとする存在でもあります。「いやいや、いくらお腹が空いたからって、人の物を盗んではいけません」。それが建前だと思います。もちろん、法律にしたがって成り立っている集団の中では、人の物を盗むのは、まぁ犯罪でしょう。だから「人の物を盗んではいけません」と人々が言う時には、法律にこう定められていて、盗むことは犯罪だから、だからそれをしたあなたは罰せられますということになります。それが法律とか、決まり事というものです。でも間違えてはいけないことがあります。そういう法律とか、決まり事というのは、後から作ったものなんです。そういうものの前に、人間と言うものが居るはずです。「どんなことをしてでも食って生き延びたい」と、腹の底では思っている、ホンネではそう思っている人間が先に居るんです。そういうむき出しの欲を持った人間同士が、どうにか折り合いをつけて、一緒に生きていくために、決まり事や法律が作られて、それを守ることで、なんとか集団が成り立つということになるわけです。

ところがホンネよりも、法律や決まり事というタテマエの方が前面に出てきてしまうことがあります。ホンネで生きようとする少数者をタテマエを前面に出してくる多数者が、よってたかって非難するということになってしまうんです。イエスの弟子たちが空腹で苦しんでいたことの方が、より重要な問題なのに、律法に定められている「安息日」の規定の方が大事だというわけです。でも人間のホンネの部分をタテマエで覆い隠すよりも、人が生きて行くことの方が大事なはずです。イエスはそのことを言いたいのだと思います。

使徒パウロも同様です。かつてのパウロは、ユダヤ教や律法というタテマエに守られていないと生きて行けない男でした。でもイエスとの出会いによって、パウロは変えられました。人間の建前の部分よりも、「腹が減ったら、どんなことをしてでも食う」というホンネの方を大切にするイエスに出会って、それまでの自分が間違っていたことに気づいたんです。ユダヤ教や律法という建前を前面に出して、垣根のようなものを作って、その外側にいる人々を殺してでも、その垣根そのものを守ろうとするのは間違いだと気づかされました。でも、パウロは古い伝統―ユダヤ教や律法―を捨てて、新しい伝統―キリスト教―に乗り換えたのでないと思います(ここは重要です)。パウロは、ただ人間として正直になろうとしているんです。ところが、そんなパウロも、タテマエを前面に出すエルサレムの人々によって殺されそうになるのです。

わたしたちも、実は、いろんな垣根に囚われ過ぎてるんじゃないでしょうか。たとえば、仕事をしないと本当に生きていけないでしょうか。法律を破ったら、もうダメなんでしょうか。国家と言うものが無かったら、人は生きて行けないんでしょうか。それらは確かに無いと困る大切なものです。でもそういうものはすべて、後から作られたものです。先にあるのは、どんなことをしてでも自分は生きて行こうとする人間です。人間のホンネの部分が先にあるんです。それを無いことにして、社会人として仕事が大切、法律を守ることが大切、国を守ることがまず大切というようなことになってしまったら、それはもうイエスを非難し、パウロを殺そうとしている人々と同じことではないでしょうか。あるがままの人間の部分を隠さないで、そういうところを大事にして、そこからみんな一で緒に生きて行くことを考えよう。それがイエスの教えだと僕は思います。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後には、クリスマスの讃美歌練習をしました。

次週は、教会の暦ではアドベント第3主日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記24章1~12節、牧師からのお話のタイトルは「荒野の野ろば」です。礼拝中、出入り自由です。礼拝後はクリスマスの讃美歌練習をします。どなたでもぜひご参加ください。その後、会堂清掃、定例役員会の予定です。

報告:山田有信(牧師)

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