2014年12月28日主日礼拝報告

教会の暦では降誕節第1主日の礼拝でした。

メンバーのMさんが献げてくださったお花

メンバーのMさんが献げてくださったお花

第1部子供の礼拝では、旧約聖書・創世記32章23~25節を読んで、牧師から「かみとたたかう」というタイトルでお話をしました。ヤコブはヤボクの渡しで神とたたかいます。夜、いきなり誰かが襲ってくるわけですから、とても恐ろしい体験です。考えてみると、ヤコブっていうのは寂しい男です。父イサクを欺いて、兄エサウを出し抜いて反感を買い、伯父のラバンから騙されたり、争ったり。もしかしたら、そんなヤコブのやり場のない苦しみが、神とのたたかいとして現われて来たのかもしれません。たたかいの後、ヤコブは「イスラエル」という名を与えられます。それは、人と人との間で苦しむヤコブへ向けた、「共に生きよ」との神のメッセージではなかったでしょうか。

第2部の礼拝では、旧約聖書ヨブ記24章13~25節を読んで、牧師から「朝が闇となる」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

朝が闇となる

人に救いが訪れるのは朝だという考え方が、イスラエルの宗教にはあったそうです。ところが今日の聖書箇所では、その朝が、救いではなく闇であるような者たちがいると、ヨブという人が訴えています。彼らは、人をこき使い、報酬を十分に与えないので、働く人々は荒れ野の野ロバのように飢えてさまようほかありません。

ところで、そのような現実は今のわたしたちの社会でも本質的なところは変わっていないと思います。土地や財産を持たないものは、厳しい労働環境の中で働かざるを得ません。企業は業績が良い時は、多くの労働者を雇いますが、業績が悪化すると労働者を辞めさせます。仕事があるときでも、企業は常に製品の価格競争の中に居ますから、賃金はできるだけ低く抑えられます。近頃は、大企業の業績は上向きになっていると言われますけれども、物価も上がっていますから、景気がよくなっている感じはまったくないと思います。しかも、このまま企業の業績が上向いて行くとはとても思えません。実際に良い製品が作られて、それが売れているという訳ではないからです。でも、何よりも、人間が人間扱いされていないということが一番問題なのではないかと僕は思います。

新約聖書・マタイによる福音書20章に「天の国」のたとえとして、ぶどう園で働く労働者たちのことが語られています。朝早くからぶどう園で働いていた人も、昼頃から働き始めた人も、夕方になってから働き始めた人も、まったく同じだけの賃金をもらったという話です。労働者を雇った主人は、約束通りに賃金を支払っただけのことなのですが、長い時間働いた人からは当然不平が漏れてきます。けれども主人は、夕方、最後に働き始めた者にも、「同じように支払ってやりたいのだ」と言って、取り合うことはありません。この話は、二つのことをわたしたちに語っていると思います。ひとつは、労働時間の長さによって報酬が区別されるのではなくて、後から短い時間しか働かなかった者にも、人が生きるために、平等に賃金が支払われるべきだということです。「天の国」とはそういうものだというのです。でも、もうひとつ別の捉え方をすることもできるかも知れません。朝から働いていた人は、確かに長時間働いていたのでしょうが、その労働の質を考えればどうでしょうか。もしかしたら、夕方から働いた人の方が集中して働いていたということなのかも知れません。そうだとしたら、ここには労働の質を争う競争があるということになります。夕方から短い時間だけ働いた人は、労働の質という点で朝から働いていた人々に勝ったのです。「天の国」とは、労働の質と成果に見合った評価を受けることができる場だということになるのかも知れません。平等が語られているのか、健全な競争が語られているのか、どちらなんでしょうか。

わたしたちの社会には、ぶどう園の主人のような、正当な評価を下せる雇用者はいません。多くの人々が、血を吐くような競争に勝ち残るために必死になっています。でも、そういう競争から降りる人々もいます。今日食べるものがあれば満足する人々がいます。働くことなく、家に引きこもっている人々がいます。彼らは、多くの人が考えるような生活の質を維持するのが難しい人々です。でも彼らは、自分を大切にしています。自分が望まないことはしません。そして人に何かを強制することもありません。彼らはわたしたちに、人の幸せが何かを問いかけているように思います。わたしたちは、自分が何を欲しているのか、自分が何をしたいのかを忘れて、金に振り回され続けるべきなんでしょうか。もしかしたら、彼らのように、金に振り回されることなく、自分に必要な分だけのお金を手に入れて、それを自分が使いたいことに使うのが、これからの人の生き方なのかも知れません。

お金を使うのは人間です。モノを作るのも人間です。人間が人間を大切にする必要があります。決して、お金のために生きるのが人間ではないし、モノに振り回されるために生きているわけでもありません。かつてイエスが、律法で定められた義しい人になるレースから降りたように、わたしたちも、わたしたちを駆り立てる何かから降りることが必要なのかもしれません。競争に勝って豊かになることよりも、一人一人の人間性のようなものを研ぎ澄ませることを、わたしたちは求められているのではないでしょうか。わたしたち一人一人に、それぞれ必要な道が示されますように。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後には「忘年会」を行いました。メンバーのTさんが中心になって用意してくださった鍋を囲みました。楽しいひと時でした。

次週は、教会の暦では降誕節第2主日。新年礼拝です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録22章17~21節、牧師からのお話のタイトルは「新しい景色」です。礼拝中、出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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