教会の暦では復活節第2主日。大阪淡路教会では春の永眠者記念主日礼拝でした。112名の永眠者の方々を記念しました。
第1部の礼拝では新約聖書・マルコによる福音書11章15~17節の言葉を読みました。メンバーのOさんが「きもちをつたえよう」というタイトルでお話をしてくださいました。「空気を読む」ことよりも自分の気持ちを表現することを大切にしたいですね。
第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記28章1~6節を読み、牧師から「燃えたぎる大地」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「燃えたぎる大地」
「死」はわたしたちから他者との関係を奪い去ります。それは苦しみ痛みを伴うものです。けれども人と人との関係を奪い取るのは「死」だけではありません。誤解も病なども人の関係をこじらせたり損ねたりするものです。小さな「死」と言うこともできるかも知れません。「死」はともかく、小さな「死」に出会ったとき人はどうすればよいのでしょう。
ヨブは小さな「死」の経験を重ねてきました。財産を失って社会から切り離され、子供を「死」が飲み込み、健康を損ない人との関係を失い、友人たちとの関係も損なわれ、さらにヨブは神との関係も失いそうになっています。ヨブがなぜこのような目に遇わねばばらないのか、神にその理由を問いかけても神は答えようとしないからです。それらはすべて「死」とつながっているものだと思います。小さな「死」に対して、ヨブは「知恵」を探し求めるようになります。
今日の聖書箇所は、人が「知恵」を求めて大地を掘り起こして行く様子を語っています。人は多くのものを大地から受け取ります。食べるもの、エネルギー、様々な資源、宝石などです。けれどもヨブ記はそこに「知恵」を見出すことはできないといいます(21節)。大地が生み出す豊かなものも、今のヨブには役に立たないということでしょう。
ヨブが必要としているのは、世界との間で失った、人と人の間で失ってしまった、また神との間で失ってしまった絆のようなものを再生するための何かです。決して食物や宝石、資源、エネルギーなどではありません。そういったものはむしろ人と人とを争わせて、人と人のつながりを失わせるものです。大地は死者が眠る場所でもあります。われ先に大地を掘り返して何かを得ようとする試みは、もしかしたら墓を掘り返して死者を眠りから覚まそうとするような愚かなことなのかも知れません。
わたしたちは「死」を取り戻すことはできません。また、どんなに豊かさを求めても「死」を埋め合わせることはできません。豊かさを求めすぎることは、むしろ「死」をより力強く大きなものにしてしまうのかも知れません。「わたし」と「あなた」の関係を損なう「死」というものをせめて緩やかなものにするために、わたしたちは共に寄り添って生きるほかないのではないでしょうか。「死」は悲しみを生みます。「死」は取り戻すことのできない喪失をわたしたちに感じさせます。でもだからこそ、わたしたちは共に生きましょう。わたしたち一人一人が、「わたし」と「あなた」の間に関係を作り出す時、そこに神の「知恵」はあるんじゃないでしょうか。そこに神が宿り、キリストが形作られるのだと僕は思います。
(以上、牧師のお話の要旨)
礼拝後は服部緑地霊園の教会墓地に移動して墓前礼拝を献げました。墓前礼拝の中では新たに一名の方の遺骨を埋葬しました。
墓前礼拝後は、少し残った桜の下で野外食事会。持ち寄ったものを楽しく分かち合いました。皆様本当にありがとうございました。
投稿が一週間遅れてしまったので次週の予告は省きます。投稿が追い付かない!
報告:山田有信(牧師)
毎週更新ごくろうさまです!
ありがとうございます。