教会の暦では復活節第3主日でした。
第1部の礼拝では旧約聖書・創世記42章38節の言葉を読みました。牧師から「かわいいこども」というタイトルでお話しました。子供を自分の所有物のように扱う親がいます。親にとっても、可愛いと思う子もいれば、そうでない子もいる、そんな場合もあります。世の中決して平等とは言えません。そんなわたしたちがどうやって一緒に生きて行くのか考えて行くほかありません。
第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録24章24~27を読み、牧師から「無謀なキリスト者」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「無謀なキリスト者」
今日の聖書箇所に出てくる使徒パウロの姿には、人に対する恐れや敬意のようなものを感じとることができません。パウロはいま監禁されています。パウロの生命を狙うエルサレムの人々に手を焼き、またパウロの処遇に困ったエルサレムの責任者は、パウロをローマ総督フェリクスの手に委ねます。このフェリクスという男はろくでもない男です。ユダヤ全体の統治を任されているんですが、パウロが釈放を求めて賄賂を出すのを期待しています。事態を収拾するつもりもないのか、この後二年もパウロを放置します。フェリクスの妻は、イエス誕生の際に幼児虐殺を命じたとされる(マタイによる福音書)あのヘロデ大王のひ孫で、父や兄もユダヤで権力を握っていた人物でした。つまりフェリクスも妻のドルシラも地位も権力も持っている人物なのです。多くの人はそうした人物の前に立つと、それなりに恐れを感じたり敬意を覚えたりするものではないでしょうか。ところがパウロにはそういうものがまったく感じられないのです。遜るでもなく、恐れおののくでもなく、馬鹿にするのでもありません。
どうしてパウロはこうなのでしょう。わたしたちとは文化が違うのでしょうか。そうではないでしょう。ここにはパウロの信仰者としての姿勢があらわれているのではないでしょうか。パウロにとっては、総督の権威も権力も、フェリクスの下心もまるで意味のないものです。パウロが信じる神と救い主キリストの前で、パウロは人にただ真っすぐに向かいます。恐れるべきは神のみだと、パウロはフェリクスとドルシラに語ります。神と救い主イエスを信じる信仰者にとっては、雰囲気や空気や立場のようなものは意味のないものです。信仰者は、相手が誰であっても、ただ一人の人間としてまっすぐに向き合って、まっすぐに語り合うでしょう。人それ自身に対する恐れはそこには必要ありません。
(以上、牧師のお話の要旨)
礼拝後は会堂清掃、定例役員会を行いました。皆様ありがとうございました。
投稿の遅れを取り戻せていません。今回も次週の予告は省きます。
報告:山田有信(牧師)