2015年4月26日主日礼拝報告

教会の暦では復活節第4主日でした。

第1部の礼拝では新約聖書・マタイによる福音書5章14~16節を読みました。メンバーのKさんが、『マララさんこんにちは』という絵本を読んでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記28章7~14節を読み、牧師から「神のものは神に」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「神のものは神に」

人類が定住を始めたのが1万年前と言われています。それまで人類は何百万年ものの間、大きな獲物を求めて移動する生活をしていたのですが、氷河期が終わって森林が増え、見晴らしの良いところで大きな獲物を捕る狩猟ができなくなってしまったために、定まった場所に住んで小さい獲物を獲ったり漁をしたりするようになるのです。定住生活になると食料を貯蔵する必要が出てきます。海辺での漁や規模の小さい狩猟だけでは冬場をしのげないからです。そして定住は人類に大きな変化をもたらしました。それまでは食べる物が無くなったら獲物のいる場所へ移動すればよかったのですが、貯蔵することによって食べるものを所有することになったのです。すると自然から与えられるものだった獲物がそうでなくなります。与えられるモノではなくて所有するモノになるのです。やがてできるだけ多くのモノを所有したいという所有欲が出てきます。食欲には限度がありますが、所有欲には際限がありません。こうして人間は、持つ者と持たざる者に分けられ、格差という現実を生きる他なくなったわけです。

定住生活によって生まれた変化は人間の宗教心や信仰心にも影響を及ぼしたと思われます。移住生活者にとって神は自然に宿るものだったはずです。求める獲物は昨日と同じ場所には現われませんから、神の意志というものは人には分からないものだったのです。神をどこかに固定するにしても、遊牧生活をしていたイスラエルの祖先が「契約の箱」を持ち歩いていた程度のことではなかったでしょうか。けれども人類が定住を始めて、食料を貯蔵し、モノを所有するようになると、神もまた一カ所に固定されるようになります。そこに行けば神がいる、そこに神が祀られているという感覚です。人はやがて神自身の形を像に刻んだり、神の意志を言葉に換えて記すようになります。ところで人間は自分の所有するもののことは自分がすべて分かるはずだと考えるのではないでしょうか。だから人間は神の意志も分かるはずだと考えるようになって行ったのだと思います。そこへ行って祈願すれば願いが叶うはずだとか、何か定められた書物によって神の意志は分かるはずだとか、そう考え始めたのではないでしょうか。狩猟生活時代の人類はそうではなかったでしょう。獲物は神から与えらえるものですから、ただ神に感謝していたのではないでしょうか。

今日の聖書箇所のヨブ記に登場するヨブと言う人は、かつては誰よりも多くのモノを所有する人でした。そして、定められていた宗教的な規定に誰よりも真面目に従って生きることで神の意志をコントロールできる(たとえば災いを避けることができる)と考えていました。けれどもある時ヨブはそれら所有していたもの一切を失います。健康も損なわれます。ヨブ記が書かれたと考えられる時代には、特に季節労働者が苦しい生活を余儀なくされていました。オリーブやブドウが収穫される季節以外には仕事はなく、飢えるほかなかったのです。ヨブ記という書物は、そのような季節労働者たちの苦しい現実の意味を問うものだと思われます。しかしヨブは物語の中でその季節労働者以上に苦しむ者になりました。そしてそうなって初めてヨブは神の意志を問うようになったのです。今日の箇所で、ヨブは神の知恵(神の意志と言い換えてもよいでしょう)を探しています。

ティベリウス皇帝の肖像が刻まれたデナリオン銀貨

ティベリウス皇帝の肖像が刻まれたデナリオン銀貨

新約聖書のマルコによる福音書12章13節以下に、イエスとイエスの敵対者たちとの問答が記されています。敵対者たちは、ユダヤを治めるローマ皇帝に税金を納めることが神に許されるかどうかをイエスに問いました。イエスがもし「許される」と言えばユダヤの掟に背くことになります。もし「許されない」と言えばローマ帝国に逆らうことになります。問われたイエスは銀貨を持って来させます。そして銀貨に刻まれているローマ皇帝の肖像を見せながら、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に納めなさい」と答えます。これは信者たちが納める銀貨を自分たちの懐に入れていた敵対者たちへの皮肉だと言われていますが、つまりは何が神のもので、何が皇帝のものなのかは分からないのだから、自分たちで考えなさいということなんじゃないかと僕は思います。

多くのモノを所有するようになった人間は、神の意志さえ自分たちの手の中に納めることができるものだと考えるようになりました。神の意志とはコレだと決めるようになりました。神の意志がどこにあるのか、神の意志がどのようなものなのかを考えるのは苦しむ者だけになったのです。でもイエスは言います。「それが神のものなのか、人間のものなのか、誰も決めるこはできないよ」と。ヨブも言っています。「神の意志がどこにあるのか、それはどこを探しても見つからないよ」と。だからわたしたちは、何が神のものなのか、神の意志が何なのか、問いかけ続けるほかありません。わたしたちは今も神の意志を求め続ける心の旅人なのです。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は定期教会総会を開催しました。また総会後は教会協議会、臨時役員会を行いました。皆様ありがとうございました。

投稿の遅れを取り戻せていませんので、今回も次週の予告は省きます。

報告:山田有信(牧師)

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