2015年5月10日主日礼拝報告

教会の暦では復活節第6主日でした。

第1部の子供の礼拝では旧約聖書・創世記46章28~30節を読みました。牧師から「おまえのかおを みることが できた」というタイトルでお話をしました。ヤコブという人は、父のイサクをだまし、兄のエサウを出し抜いて長子の権利を手に入れました。自分が父親になってからは年下の弟ばかりを可愛がって、兄たちの反感を買います。そのために弟の一人ヨセフはエジプトに追いやられるはめになります。またヤコブは飢饉のために食料がなくなると、可愛がっていたはずの末の息子ベニヤミンを失ってもよいと考えるようになります。まったくひどい男です。けれども、そんなヤコブがカナンというところからエジプトに行こうとするときに、神は語りかけています。「心配しないでエジプトに行きなさい。わたしがあなたと一緒にエジプトに行きます。そしてわたしがかならずあなたを連れ戻します」と神はヤコブに言うのです。ちょっと納得いきませんね。でもエジプトでヤコブはヨセフと再会します。

第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記28章15~22節を読み、牧師から「神はすべてを知っているのか」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「神はすべてを知っているのか」

人は人生の道で迷ったときに聖書を当てにするのでしょうか。でも自分が人生の道で迷っていることに気づくことそのものが、すでに相当難しいことではないでしょうか。だとしたら、聖書を紐解いたり、教会を訪ねたりしているわたしたちは、少なくとも自分が道に迷っていることを知っている存在なのかも知れません。

ヨブと言う人は「正しい」とされることはすべて行っていた人でした。でもそんなヨブがすべてを失って苦しみを味わうことになります。そして、自分がどの道を歩めばよいか分からなくなってしまうのです。ところがそんなヨブに友人たちは「正しい」道に戻ることばかりを押し付けました。彼らは人生という旅の目的地を知っているつもりだったのです。でもすでに道に迷っている人に、闇雲に元の道に戻れと言っても意味がありません。ヨブは「正しい道」を誰よりも正確に歩いていたのに、それなのに道に迷ってしまったのです。ヨブは友人たちを見限ります。そして神の「知恵」を追い求めています。ヨブは神の知恵がどれほど価値のあるものかを知っています。でもそれがどこにあるのか誰も知らないこともヨブは知っています。

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神の「知恵」を神の「意志」と言い換えてもよいでしょう。でも神の意志がどこに示されているのか誰も知りません。聖書に尋ね求めてもそれは分からないと思います。でも聖書はある一つのポイントを示しています。それはイエス・キリストというポイントです。道に迷ったとき、わたしたちが立ち戻るべき大切なポイント、それがイエスだと思います。

ところが聖書の指し示すイエスは実に様々な姿をわたしたちに見せてくれます。どのイエスがわたしたちにとって必要なポイントなのか、イエスに立ち戻る道はどれなのか、はっきりとは分かりません。

イエスとはどのようなポイントなのでしょうか。ヨハネによる福音書14章6節に、福音書の著者はこう記しています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。イエスはただひとつのポイントではなくて、道なのかも知れません。わたしたちにとっての目的地でも終着点でもない、わたしたちがそこへ戻って歩むべき道なのでしょう。つまり、迷った「わたし」を「正しい」道に戻したり、目的地に導いたりするのではなくて、迷っても共にその道を歩んでいることをイエスは「わたし」に示すのだと思います。

「わたし」たちが道に迷うのは、「わたし」たちの世界が絶えず変化しているからです。世界は常に新しくなっています。新しい世界には、新しい道が必要です。「わたし」たちは新しい世界を歩むために、今日も一緒に新しい道を探しましょう。友と楽しく語り合い、論じ合いながら、イエスと言う道を探してそこを共に歩み、一人一人が目指すべき神の知恵、神の意志を見つける旅を続けましょう。神よ、道を示してください。

(以上、牧師のお話の要旨)

投稿の遅れを取り戻せていませんので、今回も次週の予告は省きます。

報告:山田有信(牧師)

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