2015年5月17日主日礼拝報告

教会の暦では復活節第7主日でした。

第1部の子供の礼拝では新約聖書・マタイによる福音書6章27~30節を読みました。メンバーのOさんが「野の花を見よ」というタイトルでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録25章13~22節を読み、牧師から「生きている死者」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「生きている死者」

キリスト教とは何でしょうか。キリスト教は数ある宗教の中のひとつです。例えば世界三大宗教とはキリスト教、イスラム教、仏教だそうですが、この三つの宗教は何が違うのでしょう。まず、開祖というのか、教祖というのか、創始者のような存在が異なります。キリスト教はイエス・キリスト、イスラム教はムハンマド(マホメット)、仏教はゴータマ・シッダッタ(釈迦)です。この違いから説明すれば、キリスト教とはイエス・キリストを教祖とする宗教と言えるでしょう。

ところがキリスト教の内部に目を向けてみると、答えはそう単純ではありません。キリスト教には非常に多くの教派(宗派)があります(イスラム教や仏教も同様ですが)。たった一人のキリストから始まったはずの宗教なのに、どうしてこんなにたくさんの教派に分かれてしまったのでしょう。

十字架

十字架

この大阪淡路教会もひとつの教派である「日本キリスト教団」に属しています。そしてこの教団は他の教派・教団との違いを示すために「日本キリスト教団信仰告白」という教えを持っています。では大阪淡路教会にとってキリスト教というのは、この「信仰告白」という教えを信じる宗教だということになるんでしょうか。「信仰告白」の一節にこうあります。「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」。つまり、神の子であるイエスが、わたしたちの罪を赦すための犠牲として十字架につけられて、神にささげられたのだということです。イエスの十字架がわたしたちの罪を赦すというわけですね。

では例えば、ヨハネによる福音書20章23節を見てください。こう書いてあります。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。皆さん、「あれっ?」と思われないでしょうか。イエスの十字架こそ人の罪の赦しだというのと、人が人を赦せば罪は赦されるのだという、この二つのことはやっぱり矛盾しますよね。罪の赦しについては、他にも聖書の中にいろいろな考え方があります。つまり一つの教えによってキリスト教を定義しようとしても無理があるということです。ではキリスト教と言うのはいったい何なのでしょう。

それを考えるためのカギが今日の聖書箇所の中にあると僕は思いました。それは使徒言行録25章19節後半の「このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです」という言葉です。これはフェストゥスという当時のユダヤ総督の言葉ですが、彼はパウロがなぜ捕えられ、監禁され、裁かれようとしているのかよく分かっていません。彼にとってパウロという男は、ただ死んだ「イエスが生きている」と言っている、それだけの男に過ぎないのです。そして実はパウロにとってもそれが一番重要なことです。パウロは死んだはずのイエスに出会ったのです。

最初の問いに戻りましょう。キリスト教というのはいったい何でしょうか。答えは最初の三大宗教の違いに戻ることになります。結局は、イエスとの出会いということに尽きるのではないでしょうか。イエスと出会った者の営み、それがキリスト教だと僕は思います。ですからそこには、十人十色人それぞれの出会いが無数にあるはずです。その出会いの経験が持つ意味を、「信仰告白」のような教えや、聖書のような一冊の本の中に押し込めようとしても無理があるのです。

「わたし」たちは、それぞれが、それぞれの仕方でイエスと出会って今ここにあるのだと思います。ならばわたしたち一人一人も、やがてパウロがそうするように、イエスとの出会いを、自由に大胆に証言することを許されているはずです。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は、教会と関係の深い社会福祉法人路交館の事業所「桜の園」の建て替えに際して、教会の土地を担保として提供する件について教会内で話し合いました。

投稿の遅れを取り戻せていませんので、今回も次週の予告は省きます。

報告:山田有信(牧師)

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