2015年5月24日主日礼拝報告

教会の暦ではペンテコステ(聖霊降臨日)でした。

第1部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記28章23~28節を読んで、牧師から「神が通れば通りで…」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話のほとんど全文)

「神が通れば通りで…」

あくまでもサンプルです。

あくまでもサンプルです。

朝、テレビをつけると「あなたの今日の運勢」を教えてくれる番組があります。「今日のラッキーカラー」とか、どんな一日になるかとか、お金をどう使ったら良いのかなどなど、いろんなことを教えてくれます。誕生日によって星座が決まって、星座ごとにその運勢を教えてくれるんです。どうやって運勢を決めるのかというと、どうやら生まれた日の太陽の位置によって運勢が決まるようです。そうだとすると誕生日が同じ人は同じ運勢になるはずです。でも、僕はむかし誕生日も血液型も歳も同じ友達がいて、同じ寮の同じ部屋で一年間暮らしたことがあるんですが、どう考えてもその友達と僕の運勢が同じとは思えませんでした。

ヨブ記という書物に出てくるヨブという人は、こうしていれば正しく生きることができます、こうすれば悪いことが起こることはありませんという決まり事をしっかり守って生きている人でした。決まり事の通りにしていれば、ヨブさんは幸せに生きることができるはずでした。その決まり事は「今日の運勢」なんかよりもずっと確かなものだと、たくさんの人が信じていました。でもヨブさんは、ある日突然すべてを失ってしまいました。そしてとても苦しむことになるのです。「運勢」も同じではないでしょうか。いくら「運勢」が良くて、それを信じていたって、やっぱり困ったことはたくさん起こって来るんです。

でもじゃあ、運勢とか占いとか、そういうものが全然役に立たないものなのかというと、どうもそうではないようです。例えば、「あなたが自分勝手に何かをすると、周りのみんなが困ってしまうでしょう。みんなと協力して取り組めば今日はきっとうまく行くはず」なんて言われると、なんとなく、「ああ、昨日は確かにわたしは自分勝手だった。今日はみんなとよく話し合ってみよう」って思って、案外その日はいろんなことがうまく行ったりします。誰にも言われないので、自分では気づかないことを、「今日の運勢」とか占いとか、そういうものがタイミングよく教えてくれることがあると思うんですね。それはたまたまそうなった、偶然そうなっただけなんですが、その偶然が今の自分にぴったり当てはまるということもあるんです(気を付けた方がいいですけどね)。

今日はペンテコステという日です。新約聖書の使徒言行録という書物に、イエス・キリストがいなくなってしまった後、残されたイエスの弟子たちが集まっている時に起こった出来事が語られています。弟子たちひとりひとりの上に、炎のようなものが分かれて注がれて、「聖霊に」満たされた弟子たちは、いろんな外国語を話すようになったという出来事です。この出来事を記念する日がペンテコステです。でも、そのペンテコステの出来事の前の聖書箇所には面白いことが書いてあります。イエスの弟子がひとり足りなくなってしまったので、誰かが新しく弟子にならなければならないんですが、その新しい弟子をどうやって決めたと思いますか。くじ引きなんです。いい加減なもんです。

キリスト教は、占いなんかを絶対に信じてはいけないと教えているとよく言われるんですが、例えば聖書をよく読んでみるとそうでもないことが分かります。確かに占いを禁止している所もあるんですが、イエスの弟子たちがくじを引いて新しい弟子を決めたように、旧約聖書に出てくるモーセという人も占いやくじを大切にするように言っています(申命記33章8節)。聖書を書いたいろんな人によって考えが違うのかも知れませんね。

じゃぁ、わたしたちは占いやくじ引きなんかをいったいどう考えたらいいんでしょう。この世界に占いのようなものがあるのは、人間にはやっぱりどうしても分からないことがあるってことなんじゃないかと僕は思います。自分でどんなにしっかりしているつもりでも、人間ってどうしても偶然に左右されるところがあるんです。たまたまってことが、人生を大きく変えることもあります。誰かが適当に言っただけの一言に救われたり、幼い子供の他愛もない一言に助けられたり、逆に傷ついたりするんです。でも、偶然が人を動かすからといって、まさかサイコロだけに頼って生きて行くわけにも行きません。サイコロで結婚相手を決めたって、まぁ上手くは行かないでしょう。でも、ひょっとしたら上手く行くってこともないとも言えない。

ですから、これに従っていれば絶対大丈夫とか、これを信じるしかないとか、そういうものはこの世の中にはないということじゃないでしょうか。そして、それと同じように、これは絶対ダメだとか、絶対これは間違いだというものも案外ないんだと思います。もうダメだ、もう死ぬしかないとか、これで絶対行ける、これなら間違いないってものも無いんです。大切なのは、何かを絶対化しないで、できるだけ広く考えて、偶然や他愛もないものにも、自分を開いておくということなんじゃないでしょうか。自分だけでも、物事は決め切れません。かと言って、誰かや何かに頼り切ることもできません。いろんな人、たくさんの出来事を簡単に切り捨てないで、そこにある自分にとっての意味を大切にすることが、誰にとっても必要なんじゃないでしょうか。「聖霊の働きを信じる」というのは、もしかしたらそういうことなのかも知れません。

(以上、牧師のお話のほとんど全文)

第2部の礼拝では聖餐式を行いました。

礼拝後は、会堂の清掃、定例役員会を行いました。

報告:山田有信(牧師)

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