2015年6月14日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第4主日、子どもの日・花の日でした。

第1部の子供の礼拝では旧約聖書・出エジプト記1章22節を読みました。牧師から「ファラオとイスラエル」というタイトルでお話をしました。

第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記29章1~6節を読み、牧師から「あの日にかえりたい」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「あの日にかえりたい」

『ALWAYS 三丁目の夕日』という2005年に公開された映画が大ヒットしました。舞台は昭和33年東京の下町です。昭和を生きた人は「旧き良き」昭和を懐かしく想い出しながら鑑賞したのでしょう。けれども、現実のその時代にあったのは「良き」ものばかりではありません。例えば、高度経済成長期に向かって核家族化がいっそう進んで行く中で、事情によって母子だけになった家庭には悲惨な状況がもたらされました。当時の核家族は男が働いて家計を支えるのが前提だったのです。統計によると、親子心中の件数が毎年200件前後あったそうです(昭和に入るまでは非常に少なかった)。でもそういう厳しい現実があったのにも関わらず、『三丁目の夕日』を観る多くの人は記憶の中の昭和の懐かしいところだけを想い出すことができるのです。

旧約聖書・ヨブ記の作者は29章に、かつての自分を美化して懐かしむヨブの姿を描いています。いまのヨブの状況は過酷極まりないものです。家族、財産、健康、それらのすべてをヨブは失っています。ヨブを見舞った友人たちも、ヨブの窮状に自分勝手で硬直した物語を押し付けるばかり。そんな友人たちをヨブは見限ります。そして自分の力で「神の知恵」を捜索します。なぜ自分がこのような悲惨な目に遭うのかを知ろうとするのです。でも結局それも見出せません。そこでヨブは過去の自分を振り返ります。たくさんの子供に恵まれ、豊かな生活を送る、かつての自分をさらに美化して過去に浸るのです。

けれども人間は、記憶の中の都合の悪い部分にフタをして、良い記憶だけを取り出して懐かしむのではありません。過去の記憶が人に痛みをもたらすことがあると考えられています。例えば、事故などで手足を失った人が、無いはずの手足の痛みに苦しむのは過去の手足の記憶があるからです。そこまでではなくても、過去の記憶によって悪い夢にうなされることは誰にでもあることでしょう。記憶は人に良いものばかりをもたらすのではないのです。

では過去を懐かしんで「旧き良き」記憶に浸ることには意味が無いのでしょうか。確かに、どんなに「旧き良き」時代を満喫して心を満たしたところで、現実が変わるわけではありません。むしろ、過去を懐かしめば懐かしむほど、それとは裏腹な厳しい現実が浮き彫りにされてしまうのではないでしょうか。懐かしさに浸りたい思いが強い人ほど、その人の置かれている現実がそれだけ厳しいということなのかも知れません。

昔を懐かしむ力は、今の自分の苦しい現実を見つめるためにこそあるのではないでしょうか。懐かしさで心を満たしても現実からは逃げられません。過去をどんなに美化したところで、どうせ現実は現実なのです。夢の中を人は生きることはできません。でもそんな厳しい現実を生きる力を、懐かしい記憶は与えてくれるのではないでしょうか。実はヨブも、自分の過去を実際以上に美化して懐古した後に、自分の厳しい現実を確かめることになります。そこに至るためには、過去を振り返る必要があったのではないでしょうか。

ただ、過去の懐かしい記憶を共有するのは容易いことですが、苦しみや痛み悲しみを共有するのは難しいことです。懐メロや『三丁目の夕日』のような映画によって昔を懐かしむことは割合簡単にできるように思いますが、痛みや苦しみはそうは行きません。それはその人にしか分からないことだからです。ヨブ記の中では、ヨブと友人たちとの関係の中に、そのことはよく示されていました。友人たちはヨブの苦しみや痛みを少しも理解できないのです。痛みや苦しみを共有することはできないのでしょうか。

イエス・キリストは、痛んで苦しんだ救い主です。何でも知っていて、何でもできて、痛みなど知らない超人的な存在ではなくて、むしろ痛んで、苦しんだ、弱い救い主です。そんなイエスの苦しみに、今現実に痛みを感じ苦しんでいる者が、一人一人それぞれ自分の苦しみを重ね合わせてみてもよいのかも知れません。そして、イエスのその苦しみを通して、わたしたちがつながることもできるのではないでしょうか。痛みや苦しみの重さは誰にも分かってはもらえません。でも、たとえ互いに痛み・苦しみを共有できなくても、それでも、苦しみの主、痛みの主イエスを通してつながりを生み出して、人は共に生きて行くことができるのではないか、僕はそう信じています。

(以上、牧師のお話の要旨)

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第5主日。朗読する聖書箇所は新約聖書・使徒言行録26章9~11節(新共同訳新約聖書266ページ)です。牧師のお話のタイトルは「イエスを冒涜する男」。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後には会堂清掃と定例役員会を予定しています。

報告:山田有信(牧師)

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