教会の暦では聖霊降臨節第5主日でした。
第1部の子供の礼拝では新約聖書・マルコによる福音書9章33~37節を読みました。メンバーのOさんが、「”あわじぃ”がね」というタイトルでお話をしてくださいました。ちなみに「あわじぃ」とは大阪淡路教会の月報「やさしい光」でおなじみのキャラクター(羊?)の名前です。
第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録26章9~11節を読み、牧師から「イエスを冒涜する男」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「イエスを冒涜する男」
「怒り」の感情はコントロールするのが特に難しいと思います。頭に血が上ってしまうと、言わなくてもよいことを口走ったり、暴力をふるってしまったりすることになってしまうことがあります。ですから、「怒り」というものをを放っておくわけにも行きませんが、もし完全にコントロールできてしまったら、もう人間ではなくなってしまうようにも思います。「怒り」が静まってから、自分を正当化したくなる思いに向き合いながら、考えるほかないのでしょうか。
2年ほど軟禁状態におかれている使徒パウロは、アグリッパという王(イスラエルの一地域を治めている)に対する弁明の機会を与えられます。パウロがどのような罪に問われているのかを確定するためです。パウロは、以前はキリスト教の伝道者ではなく、むしろキリスト者を迫害していたことを王に語ります。注目したいのは使徒言行録26章11節にある「彼らに対して怒り狂い」というところです。パウロが行っていたキリスト者に対する「迫害」は、怒りに任せて命さえ奪おうとする過酷なものでした。
パウロはどうして「怒り狂」ってイエスを信じる人々を迫害していたんでしょうか。それは、パウロ自身が弱さを感じていたからじゃないでしょうか。パウロがかつて信じていた、ユダヤ人として当然守るべき律法と呼ばれる掟がありました。そしてその掟に、必死になって自分を合わせて、掟に従って生きようとして、でもそれができない弱さをパウロは自分に感じていたのではないかと思います。そして、その掟・律法から自由になって、解放されて生きる、当時はまだほんのわずかしかいなかった、イエスを信じて生きようとする人々・キリスト者に対して、パウロは恐れと不安を覚えたのではなかったでしょうか。それらがパウロを迫害に駆り立てたのではないかと僕は思います。
ここから見えて来るのは、怒りや攻撃の背後にある弱さや不安、痛みや悲しみといったものを、自分自身で認めるのは相当難しいということだと僕は思います。自分が弱さを感じたり、不安を感じたりしていることを隠して、それを誰かのせいにして相手を攻撃する方が簡単だし、その方が人とつながりやすくて、何かを誤魔化すには都合がいいんだと思います。
「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコによる福音書14章34節)。イエスは、捕えられて十字架につけられる直前、ゲッセマネと呼ばれるところでそう言ったとマルコは記しています。イエスを通して、「わたし」たち一人一人がつながることができるとしたら、それはイエスのこの言葉に表されている、弱さや不安、寂しさ、痛み悲しみを通してではないでしょうか。「怒り狂」って迫害するパウロの姿を想像しながら、僕はそう感じました。
(以上、牧師のお話の要旨)
礼拝後は会堂の清掃、定例役員会を行いました。皆様のご協力に感謝します。
次週は、教会の暦では聖霊降臨節第6主日。朗読する聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記29章7~20節(新共同訳旧約聖書811ページ)です。牧師のお話のタイトルは「満ち足りた人生」。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後は「ほっとコーヒータイム」を開催します。DVD『ナザレのイエス』を20分ほど鑑賞します。こちらも、どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)