2016年1月24日主日礼拝報告

教会前のウィンドウ

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教会の暦では降誕節第5主日でした。

第1部の子供の礼拝では新約聖書・ヤコブの手紙1章2~4節を読み、メンバーのIさんが「日本昔話:ももたろう」という絵本を読んでくださいました。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記32章11~16節を読んで、牧師から「頼るべきは神か」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「頼るべきは神か」

神に任せることはできない?

「人生いろいろあるけれど、思い煩いはすべて神さまに任せて、今は安心して暮らしています」というような言葉を聞くことがあります。でもどうでしょうか。人がそんな境地に達することは本当にあるんでしょうか。確かに、人間にはできることとできないことがあって、自分ができることはすべてやり尽くして、あとはもう神にお任せするほかありませんという境地に達することが、この世にはもしかしたらあるのかも知れません。「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょうか。ただ、僕自身はどうかというと、そんな気持ちになりたいと思うことはあっても、そんな気持ちになったことは一度もありません。そして、今まで出会って来た人の中に、冗談めかしてそう言っている人以外で、本当に言葉通りにそういう境地に達しておられるのだろうと思うような方がいたかというと、少なくとも今まではおられませんでした。むしろ、本心から「神に任せる」と言われているんだなぁと思うような方に限って、僕から見ると、もう不条理としか言いようのない厳しい現実を生きておられていて、自分のできることはすべてやり尽くしたというような状況からは程遠いのではないかということだったように思います。今日の聖書個所の中で、エリフという人がこう言っています。「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない」(13節)。つまり、「神が彼を罰するはずだから、もう後は神に任せよう」、なんて考えてはいけないということです。苦難に見舞われたヨブという人が、「自分がこんな目に遭わなければならない理由はない」と言い張るのに対して、ヨブの友人たちは「神が必ずあなた(ヨブ)を罰するでしょう」と言うほかなくなってしまいました。ところがこのエリフと言う人には、この友人たちの言葉がどうにも許せないのです。

安心して人事に執着する

イエスという人はどうでしょうか。イエスはすべてをやり尽くして、すべてをまっとうして、何かを悟って、あるいは、やり残したことをすべて弟子たちに託して、満足してこの世を去って行ったのでしょうか。例えば、ルカによる福音書を記したルカと言う人は、イエスの最期の言葉をこう綴りました。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(23章46節)。このイエスの言葉を、すべてやり尽くした、ある意味満足を示す言葉として受け取ることもできるでしょう。ところで、マルコによる福音書にマルコという人は、イエスの最期の言葉をこう記しました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15章34節)。これは明らかに、神に対するイエスの不満を表わしています。イエスは「天命」のようなものを知っていました。それは「神の国」です。「神の国」を知っていたイエスにとって、十字架という終わりはとても受け入れられるものではなかったんだと思います。そう考えると、「霊を御手に委ねます」というルカによるイエスの言葉も、やり尽くした、満足したというようなことではなくて、むしろ、やり尽くすことはできませんでしたという、未完成の何かを表わすもののようにも感じます。「天命」と比べたら、たぶん人のすることはすべて、とても満足の行くものではないのでしょう。もしそうだとしたら、人は誰も未完に終わる自分の人生、やり尽くすことのできない人生を、かえって安心して、人に任せ、神に委ねることもできるのではないでしょうか。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は、ほっとコーヒータイムのひと時を持ちました。

次週1月31日(日)は降誕節第6主日・大阪中部地区交換講壇礼拝です。今年は東梅田教会との間で行います。聖書個所は新約聖書・ローマの信徒への手紙1章16~17節(新共同訳新約聖書273ページ)です。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後には説教者を囲んで茶話会を予定しています。こちらも、どなたでもぜひご参加ください。

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