ひさびさの更新です。何度も見てくださった方々、ほんとうに申し訳ありません。
この間、礼拝の中で毎週行っていた「平和のあいさつ」が、毎月第1日曜のみと変わりました。詳しくは特色をご覧ください。
以下は礼拝報告です。教会の暦では復活節第7主日でした。
第1部の子供の礼拝では新約聖書・ヨハネによる福音書19章25~27節を読み、メンバーのIさんが「神さまのかぞく」というタイトルでお話をしてくださいました。
第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記34章16~22節を読んで、牧師から「弱い者も強い者も」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「弱い者も強い者も」
まなざし
まなざしというものは、それを向ける側と向けられる側の関係や、その時の状況や、それぞれの感じ方によって、その意味は変わってきます。見ている方は相手のことを温かく見守っているつもりでも、見られている方は「見張られているみたいで嫌だった」となってしまうこともあります。相手が悪さしないかどうか見張っていただけなのに、「ずっと見守られていて安心でした」となることもあるでしょう。
罰するためのまなざし、見ているだけのまなざし
神のまなざしも様々に語られています。「神は人の歩む道に目を注ぎ/その一歩一歩を見ておられる。悪を行う者が身を隠そうとしても/暗黒もなければ、死の闇もない」(新共同訳聖書・ヨブ記34章21~22節)。これはヨブ記の物語の中で、エリフという人が語っている言葉です。エリフは、神のまなざしからは誰も隠れることはできない、悪いことをすればすぐに人は神に滅ぼされるのだと言いたいのでしょう。ヨブという人は、神のまなざしをただの監視の目にしか感じられないと嘆いていました(同7章12節)。ここには、問いかけても応えない神、人の苦しみをそのままにしておく神に対する不満も含まれているのでしょう。しかしエリフは、人の苦しみの背後には、何か人の罪が必ずあって、神はその罪を見逃すことなく罰するのだと言っているわけです。ヨブの受け取り方も、エリフの受け取り方も、神が人を見ていることに変わりはありませんが、エリフは人を罰するために見ていると理解しているわけです。
赦すためのまなざし
讃美歌21の197番に「ああ主のひとみ」というとても印象深い歌があります。その2節はこういう歌詞です。「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主をいなみたる、よわきペトロをかえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや」。イエスが逮捕された後、それまでイエスと行動を共にしていたペトロという人が、「お前もイエスの仲間だろう」と言われたときに、それを三回否定したという福音書の記事をもとにした讃美歌です。福音書の中で、イエスがペトロを見ていたとしているのはルカによる福音書だけです。著者のルカが、マルコによる福音書の記事に「主は振り向いてペトロを見つめられた」とつけ加えて書いたのでしょう。この讃美歌は、ルカだけが記したイエスのまなざしを、ペトロを赦すものだったと歌います。実際にペトロは、後にそのようなまなざしを感じたのではないでしょうか。
まなざしの中で
神の目、あるいはキリストの目は、人やこの世界を見ているのでしょうか。それは誰にも分かりません。でも僕は、神のまなざしが、人に、世界に向けられていると信じています。そのまなざしを、エリフのように人を裁くためのまなざしととるのか、ヨブのように世界に何もしない傍観ととるのか、ルカのようにイエスを裏切るペトロを責める視線ととるのか、あるいは、讃美歌に歌われているような暖かい赦しのまなざしととるのか、それはそのまなざしを受けとる人しだいでしょう。どう受け取るとしても、どう感じるとしても、この「わたし」は神のまなざしの中に置かれている、そのまなざしの中でこの世界を生きている、僕はそう信じます。
(以上、牧師のお話の要旨)
次週5月15日(日)は聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝です。礼拝の中で聖餐式を行います。聖書個所は新約聖書・マルコによる福音書4章1~9節(新共同訳新約聖書66ページ)です。どなたでもぜひご参加ください。
礼拝後には月に一度の会堂清掃と定例役員会を予定しています。