2016年5月22日三位一体主日礼拝報告

教会の暦では三位一体主日でした。

内田美智子『いのちをいただく』(Amazonより)

内田美智子ほか『いのちをいただく』(Amazonより)

第1部の子供の礼拝では旧約聖書・創世記1章24~25節を読み、メンバーのKさんが「いのちをいただく」というタイトルで、同じタイトルの絵本を読みながら、お話をしてくださいました。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記34章23~37節を読んで、牧師から「神を軽んじてはいないか」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「神を軽んじてはいないか」

信仰者はどうあるべきか

神を信じ、神に従う者がどうあるべきか、そのことを親切にも教えてくれる人がいます。例えば、ルカによる福音書18章にある「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」という見出しのついた記事がそうです(新共同訳新約聖書144ページ)。著者ルカの意図は明らかです。「徴税人のような者でないことを感謝します」というファリサイ派ではなく、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈る徴税人の方を、イエスの口を借りてルカは評価しています。つまり信仰者として謙虚であるべきことを教えようとしてくれているのだと思います。もちろん、ファリサイ派の態度は論外でしょう。でも徴税人の方も、ただ「自分は罪人です」と告白しているだけのことです。どういう状況の中で、誰がなぜ、どう苦しんでいるのかということは、まったく問題にされていないのです。ただ「謙虚であれ」というだけなら、律法に忠実であることを誇るファリサイ派の姿と、そんなに違わないのではないでしょうか。

神の代弁者

ヨブ記34章にも、信仰者の正しいあり方を教える人が出てきます(新共同訳旧約聖書821ページ)。エリフという人です。まずエリフは神の自由を語ります。「この世でどんなに力を持つ者が相手であっても、神は裁くべき者を自由に裁くのだ。人間はそれを甘んじて受け入れるほかない。だからヨブのように、人間の側から神を責めることなどできないのだ」とエリフは言っているのだと思います。そしてエリフは、親切にも、神にこう述べなさいとヨブに教えてくれるのです。「今、わたしがこんなに苦しい思いをしているのは、わたしが罪を犯したからです。その罰を受けているのです。もう決して罪を犯しません。もしわたしが知らずに罪を犯しているのなら、神様どうかその罪をわたしに教えてください」。ヨブはそんなふうに述べるべきだとエリフは教えてくれます。エリフはとにかくヨブが気に入らなのでしょう。

エリフはヨブに、「神の自由」を認めて、人間は一方的に神に従うべきだと教えます。確かに神は自由です。神は弱くされている者の叫びを聞いています。でも人間は神に問いかけることもできないのでしょうか。エリフはここで、ヨブに向かって神に従いなさいと言いながら、実は自分自身が神になってヨブを従えようとしているんじゃないでしょうか。それが露呈してしまっているのが、33節です。ここでエリフはうっかり本音を漏らしています。「態度を決めるのは、わたしではなくあなただ」とエリフは言うんですが、エリフ自身の主張に従って正確に言うとしたら「態度を決めるのは、神ではなくあなただ」となるはずです。反省すべきは神ではなく、ヨブの方だと言うべきなんです。ところが「神」と言うべきところを、エリフはうっかり「わたし」と言ってしまっています。とにかく、神に対するヨブの態度が気に入らない、正しい信仰はこうあるべきだと言いたい、そんなエリフの気持ちが、いつのまにか神自身の気持ちになってしまって、エリフ自身が神に成り代わってヨブを裁こうとしているんです。「よく考えて話しなさない」とエリフは言っているんですけれども、エリフ自身の方が不注意なんです。語るに落ちるとはこのことでしょうか(正確には、ヨブ記にエリフの発言を加えた編集者が筆を滑らせた?)。

ひとりひとりが真実を求めて

ファリサイ派のように宗教という仕組みに忠実に生きる人であっても、徴税人のように社会の仕組みに乗っかって生きるほかない人であっても、エリフのように、これこそが正しい信仰だということを知ったつもりになっている人であっても、神に従い、信仰者としてどう生きるのかということを求め続ける必要があると思います。この世界を生きる限り、人は人に影響を与え続け、人は人から影響を与えられ続けます。自分だけが清く正しく生きることはできません。何かを、誰かを犠牲にしながら、誰もが生きています。そして、そんな人間を神は赦し、一人一人に「生きなさい」と告げていると僕は信じています。だから、人は生きるべきだし、生きようとしなければなりません。

でも、自分が生きることによって、誰にどのような影響を与えているのか、何を誰を犠牲にしながら自分が生きているのか、可能な限り考え続け、その答えを求め続ける必要があるんじゃないでしょうか。どんなに優れた人でも世界のすべてを知ることはできません。人には限界があります。でもだからと言って、とにかく謙虚にとか、とにかく祈りなさいとか、これこそが正しい生き方です、みたいなことで、すべてを片づけることはできません。自分なりに、可能な限り、真実を求めて生きたいと思います。真実に生きようとして、十字架への道を歩むほかなかった、あの主イエスが共に歩んでくださると信じます。

(以上、牧師のお話の要旨)

次週5月29日(日)は聖霊降臨節第3主日です。聖書個所は新約聖書・マルコによる福音書4章10~12節(新共同訳新約聖書67ページ)です。讃美歌は、『改訂版こどもさんびか』から54と128番、『讃美歌21』から56と417と499です。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は「ほっとコーヒータイム」です。コーヒーやお茶をいただきながら語り合います。こちらにもぜひどうぞ。

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