教会の暦では聖霊降臨節第4でした。
第1部の子供の礼拝では旧約聖書・出エジプト記17章3~6節を読み、「水の出る岩」というタイトルで牧師からお話しました。
第2部の礼拝では、新約聖書・マルコによる福音書4章13~20節を読んで、牧師から以下の様なお話をしました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「良い実」
イエスのそばにいる人
イエスに関心のある人なら、イエスに直に会って、その声を聴いて、教えを乞いたいと思うかも知れません。できることなら、僕もそうしてみたいと思います(言葉は分からないですが)。そういう意味では、イエスと行動を共にしていた弟子たちやほかの人々のことをうらやましく思わないでもありません。でもイエスの言葉を直に聴いた弟子たちやほかの人々が、イエスの言葉の意味を理解できたのかと言うと、そうでもないのかもしれません。マルコによる福音書の著者マルコは、むしろ、弟子たちの無理解を何度か語っています。
マルコの弟子批判
マルコ福音書4章13~20節(新共同訳新約聖書67ページ)もそのひとつです。この中でマルコが特に伝えたかったのは13節です。イエス自身が語った譬え話を、イエスは弟子たちやほかの人々のためにもう一度説明し直す必要があったのだということをマルコは言いたいのです。逆に言うと、譬え話の解説そのものは、それほど重要ではありません。イエスは生かされていることそのものを讃美していました。例えばマタイ福音書の6章にある、「空の鳥をよく見なさい」(26節)や「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい」(28節)がそうです。そんなイエスが、こっちのあなたは環境に恵まれて信仰が成長し祝福を受けるけれども、そっちのあなたは環境に恵まれず不信仰に陥って滅ぼされるなんていうことを言うとは僕には思えません。
良い実
わたしたちは、必要なものを与えられていて、生かされています。イエスに近いとか遠いとか、あるいは力を持っているとかいないとか、わたしたち一人一人には確かにそういう違いがあります。でも、それは決定的な違いではないと思います。わたしたちが与えられていて、生かされている、そのことは、与えられているものを、わたしたちが上手に分かち合うことができるのかどうかを問われているということだと思います。与えられているものを分かち合い、それぞれの力で支え合うことがなければ、いろいろなところに過不足が出てくるんじゃないでしょうか。わたしたちは一人一人みんなが良い種です。どんなところに蒔かれて、どんなふうに育っていくのかに違いはあっても、互いに支えあって、助け合って、補い合って、生きて行きます。「あなた」がいるから「わたし」がいるのだし、「わたし」がいるから「あなた」がいるのだし、誰も「わたし」一人、「あなた」一人では生きてはいけません。分かち合って、支えあって、助け合って、補い合って、みんなで生きて行きたいと思います。そんな世界こそが、神が人に望む”良い実”なんじゃないでしょうか。
(以上、牧師のお話の要旨)
次週6月12日(日)は聖霊降臨節第5主日・こどもの日(花の日)です。そして「主の食卓礼拝」(礼拝の中で食卓を囲みます)です。聖書個所は旧約聖書・ヨブ記35章1~8節(新共同訳旧約聖書822ページ)です。讃美歌は、『改訂版こどもさんびか』から9と113番、『讃美歌21』から81と430と499です。どなたでもぜひご参加ください。
礼拝後は教会になかなか来れなくなった方々を訪問します。