メッセージ 2020年5月3日

「霊によって歩み続けなさい」

世の中「自粛、自粛」と叫ばれていますけれども、「自粛警察」という言葉を皆さんもどこかでお聞きになったでしょうか。例えば、要請に応じないで営業を続けるお店に張り紙をするような行為や人物のことを指す言葉のようです。また、ある商品がやや品薄気味だというようなことを知ると、多くの人が店に殺到してその品が本当に店頭から消えてしまうというようなことも繰り返されています。不安が人をそうさせるんでしょうか。そういう現象を報じる記事や映像を見るたびに、いやーな気持ちにさせられます。でも僕の場合、一番いやな気分になるのは、僕自身の心の中にも同じ思いがあることを知るときなのです。「自粛」の要請に従わないお店を見たりすると、やっぱりちょっと思いますし、何かが品薄と聞くと、なんだかちょっと焦るような気持になってしまうんです。何なんでしょうかね。

自分と足並みをそろえない相手の足を引っ張ろうとしたり、自分さえ足りていれば安心だと思ったり、そういう思いのことを、使徒パウロは「肉の欲望を満足させる」ことだと言っています(ガラテヤの信徒への手紙5章)。そして勧めています。「霊の導きに従って歩みなさい」(16節)。さらに「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する」(17節)と言い切っています。誰も「肉の欲望」に支配されてはならないし、「肉の欲望」が満足させられることなど誰にとってもあり得ないことないのです。だからパウロは「霊の導き」に従って生きて行きなさいとはっきり言うのだと思います。

でも「自粛警察」のようなことはともかく、何かが品薄だと聞くと不安になってしまって、たまたまお店でそれを見かけたりすると、「今日はちょっと多めに買っておこうかな」となってしまうのは、どうでしょうか。それがないと確かにちょっと困るんです。でも絶対にそれがないとダメなのかというと、そんなことはありません。ほかのもので代用できることがほとんどだし、何だったら無くたって死ぬわけではないんですよね。でも、でも…なんです。霊によって歩む者は、そんなことを思ってはいけないんでしょうか。パウロはこうも言っています。「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思っていることができないのです」(17節)。霊の導きによって生きようとするからこそ、わたしたちは迷うし、逡巡するし、時に間違いも犯すかもしれませんし、本当に苦しいのだと思います。

もういっそ、もしコネがあるならそれを使って、例えば検査を受けたり、優遇を受けて医療を受けたり、薬を手に入れたりしたい。あまり知られていない方法を知っているなら、世の中で不足している品を自分だけは手に入れたりしたい。それとも、もうあれこれ考えるのも面倒だし、権力を持っている人々がわたしたちの生活のすべてをコントロールして「正しいこと」をやって欲しいと思うのかもしれません。あるいは反対に、そういった思いをすべてきっぱり捨て去って、この世から切り離されたかのような清々しい境地に達したいと思うのかもしれません。

でもそれはどちらも違うと思います。それは、少なくともパウロの言う「霊によって歩む」生き方ではありません。「自分さえよければよい」という思いに引きずられつつ、「いや、そうではない、あの主イエスのように人を愛する生き方をしたい」と願う、それが「霊によって歩み続ける」わたしたちの生き様なのではないでしょうか。

今日から始まる新しい1週間、「肉の」思いに引きずられる自分自身を抱えながら、「霊の導き」によって、人を愛したいと願う人間として、逡巡しながら葛藤しながら、一緒に歩み続けたいと思います。


教会には2人、「電話礼拝」(Web会議システム)で数人参加の礼拝でした。

もはや元通りの礼拝に戻ることはないのでしょうか。世の中全てがガラッと変わってしまうともまだ思えないのですが、そういうことも想定しておかないといけないと思い始めています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトは reCAPTCHA と Google によって保護されていますプライバシーポリシー利用規約 申し込み。